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「劇場で彼の言葉に背を押され ~ミニシアター雑記~」 吉澤颯太

(以下は2022年12月16日の金原のブログからの転載です)

 今年度の秋学期、「創作表現論」とは別に、「創作実践指導」というミニゼミのような授業をしていて、毎回、なかなか楽しい作品が出てくる。
 こないだ、映画に関するエッセイが出てきたので、ご紹介を。

創作実践指導(9)                     2022年12月11日提出

 劇場で彼の言葉に背を押され ~ミニシアター雑記~ 吉澤颯太

 大学生になってから、映画館を利用することが急激に増えた。とはいえ、大学入学とほぼ同時期に、世間では「自粛」の二文字が広がりはじめたので、一年間ぐらいは、家にこもっていた。   
書き出しを訂正する。ただしくは、「大学二年生になってから」だ。
 映画館に行く機会がなぜ増えたのか。それはミニシアターの存在を知ったからだ。
ぼくは、生まれも育ちも神奈川県の川崎市川崎区で、最寄り駅の近くには、映画館が三つ存在する。チネチッタ、TOHOシネマズ川崎、109シネマズ川崎。すべて「シネコン」と呼ばれる大きな映画館であり、幼い頃から、映画館に行こうと思い立ったら、かならずそれらの映画館に赴いていた。だから、スクリーンがひとつかふたつしかないような小さな映画館、つまりミニシアターには、まるで縁がなかった。
 いつその存在を知ったのか。それは、大学二年生になって数か月経ったある日、『親密さ』という作品が都内で上映される、という、匿名の誰かが発信した呟きを、ツイッターのタイムラインのなかに発見したときだった。
 当時は、コロナ禍がはじまって一年ほど経ち、また以前のように映画館に足を運ぶようになってから間もないときだった。
それまでは、主にサブスクで映画を探していた。あるときは、Amazonプライム・ビデオで一挙に配信されたイランの巨匠アッバス・キアロスタミの作品群をむさぼるように見たり、またあるときは、U-NEXTで、ニュー・ジャーマン・シネマの旗手ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーによる『第三世代』といういかにもエポック・メイキングな雰囲気の漂うタイトルの映画に手を出し、そのあまりの難解さに頭を悩ませたりした。
さらには、ごくたまに、DVDを「宅配レンタル」することもあった。その際に出会ったのが、青山真治による三時間四十分の大作『EUREKA ユリイカ』だ。役所広司演じるバス運転手と、宮﨑あおい・宮﨑将の演じる兄妹が、共に居合わせたバスジャック事件で経験した「喪失」を経て、徐々に関係性を育んでいき、やがて「再生」の旅に出る。セピア色の映像を通して描かれる彼らの感情の揺らぎは、繊細で、しかし力強い。パソコンの画面で見たはずなのに、とんでもない映像体験をしたな、と思わされた。そこには、映画が映画であるために必要ななにかがある気がした。それは言葉にすると陳腐だが、「普遍性」のようなものだ。本作は、いまでも、ぼくの最も好きな映画作品である。(のちに、劇場でリバイバル上映されたときには、二回見に行った。)
さて、ぼくは、サブスクやDVDでの映画体験に浸るなかで、マスクを着用し、世界が「コロナ禍」であることを受け入れながら外出することを、だんだんと覚えていった。そして、ロバート・エガースによる密室ホラー・コメディ『ライトハウス』をチネチッタに、そして、西加奈子原作のアニメーション作品『漁港の肉子ちゃん』をTOHOシネマズ川崎に、見に行きはじめたのだった。
 そして、あるとき、『親密さ』が上映されるという情報を知る。
本作の監督である濱口竜介の存在を知ったのは、たぶん、大学一年生の夏休みに、家で映画『寝ても覚めても』を見たときだった。役者の杏と夫婦関係にあった同じく役者の東出昌大と、芸能界におけるニュー・ジェネレーションの担い手であった唐田えりかが主演を務め、のちに、このふたりの不倫報道によって、悪い意味でそのタイトルが世間に広がっていった映画だ。なんという「とばっちり」だろう。
ぼくが『寝ても覚めても』を知るきっかけは、本作が、是枝裕和の『万引き家族』と共に、2018年に行われたカンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品されたという話題性によるものだった。最高賞であるパルム・ドールを受賞したのは『万引き家族』のほうであり、それは、公開時に見に行った。平日の朝、学校へ行くために家から出て、バスで川崎駅に着くや否や、近くのビルの最上階にあるTOHOシネマズ川崎に、ブレザー服を身にまとったまま吸い寄せられていったのだ。その日は学校をサボった。理由はよく覚えていないが、たぶん、体育の授業に参加したくなかったのだと思う。肝心の映画本編では、若手俳優として既に知名度を確固たるものにしていた松岡茉優が、風俗店で働く女性を演じていた。現実に存在するセックス・ワーカーの労働現場についてまるで無知だったぼくは、スクリーンを見上げながらショックを受けた。
いっぽうで『寝ても覚めても』は、公開時には見なかった。川崎のシネコンではやっていなかったのだろうか。あるいは、そもそも作品自体に興味がなかったのか。とにかく、ぼくがそれを見たのは、二年ほど経ってから。興味が湧きはじめたのか、Netflixかなにかで見た。
怖い作品だと思った。ストーリーは一風変わった恋愛話という感じなのだが、映像のなかに映りこむ、ときに人間の見せる表情に落とされる影が、霊的で、異質なものに感じられた。それを面白がることができていたかどうかは覚えていないが、見終えてからしばらく経っても、心のなかに何かがわだかまり続けているような感覚が、少なくともあった。
そこから、濱口竜介という監督の名前を、頭の片隅に置いておくようになった。
しかし、その時点で、レンタルや、配信サービスでの視聴ができる彼の作品は、『寝ても覚めても』の一本だけだった。大学二年にあがる前、彼が共同脚本を務めた黒沢清監督作品『スパイの妻』をレンタルして見て、楽しめたが、やはり、ぼくは、彼の「監督」作を見てみたいという思いを拭えなかった。(ここに隠されているのは、いわば「監督至上主義」みたいなもの。かつてスタンリー・キューブリックが『シャイニング』の撮影現場で何十回もリテイクを重ねた、という鬼畜エピソードをなにかのサイトを通じて知ったときに、監督なる職業のもつ「権威性」を誤認したために、当時のぼくは脚本家の重要性を軽視したのだ……と、今では思う。)
しばらくして、彼が商業映画二作目『ドライブ・マイ・カー』でカンヌ国際映画祭を盛り上げたことを、ぼくは嬉しいニュースとして受け取る。そして同時期に、池袋のミニシアター「新文芸坐」にて、彼の初期監督作品『親密さ』が、数週間限定で上映される、という情報を入手した、というわけだ。見ないわけにはいかない、と思った。だって、他に見る術がないんだもの。
2021年7月25日の朝、ぼくは、京浜東北線と山手線にたったひとりで揺られ、池袋の地に向かったのだった。
改札を抜けるとそこは「川崎でない町」だった。田舎者と思われないよう、胸を張り、あくまでも毅然とした態度を演出した。そして、人のごった返す歩道を、イヤホンを通して聞こえてくるGoogleマップの案内音声に従いながら歩いて行った。
着いた建物に入り、階段を三階まで登る。その間に、心臓の速い鼓動を感じた。緊張しているからなのか、階段をあがることで疲れているからなのか、わからなかった。入り口をくぐった先にいたもぎりのスタッフに、スマホの画面に表示されたチケット購入証明のバーコードを、さりげなさを装いながら見せると、すこし照明の落とされた劇場のなかに招き入れられた。
ミニシアターと聞いていたのに、いざ門をくぐってみたら、そこにはずいぶんと広い空間が確保されていた。驚いた。TOHOシネマズ川崎の、いちばん大きな劇場より広いのではないか、と感じたほどだ。席はほぼ埋まっていた。ぼくは、指定席である、後方のまん中あたりの席に腰を下ろした。いちど座ると、座席のフカフカした感触に全体重を任せられるから、ホッと一息つけた。
スマホの電源を切ると同時に、劇場が暗くなった。そして映画がはじまった。予告編を挟んでからはじまったのか、本編からいきなりはじまったのかは、覚えていない。(予告編を省略することが、新文芸坐に限らずミニシアターの上映の際には往々にしてある。)
たしか、主人公たちが、舞台の稽古をしている場面から、映画はスタートする。知らない役者しか映っていなかった。それを見ている自分が、なんだか「ツウ」な映画を好んでいる人間であるように感じられて、満足した。そして、男女が、電車に乗ったり、家でいちゃついたり、スカイプを繋いで会話したり、朝焼けの空の下で橋を渡ったり……。いったいそこになにが描かれているのかはまるでわからなかったが、これこそが、ずっと自分の待ちわびていた「濱口竜介の映画」なのだ、と思うと、不思議なことに、ただスクリーンを眺めているだけで心地よくなってくるのだった。
映画が終わり、劇場が明るくなった。しかしまだ「本当の終わり」は訪れていなかった。というのも、この映画、全編が四時間十五分ほどある。ぼくのオールタイムベスト『EUREKA ユリイカ』よりも、三十分長い。したがって、その上映回では、映画の中盤に、二十分ほどのインターミッションをはさむ、という措置(?)がなされていた。
それまで映画を共有していた人々が、明転した空間のなかで、各々の行動をとり始める。トイレに発つ者がほとんどだった。ぼくは立つのがおっくうだったから、席に着いたまま、電源を入れ直したスマホをいじった。すると、後ろの出入り口のほうから、男性客とおぼしき二人組の会話が聞こえた。
「お久しぶりです」
「あ、どうも。来てたんだ」
「長いですね」
「いやあ、まったく」
「あと二時間、がんばりましょう」
 彼らの関係性は、いまいち掴めなかった。しかし、ぼくはそこに、ミニシアターに集う者同士しか築き上げられないであろう、したたかな結束力のようなものを感じた。
 二十分経つ頃には、席はほぼ埋まっていた。そして、劇場がふたたび暗転した。
 この映画は、二部構成になっているらしかった。前半では、主人公たちが舞台の稽古にはげむ光景が映されていく。そして、後半では、彼らによる舞台公演を、最初から最後まで、削ることなく丸々映し出す。いままでに見たことのない演出で、ふたたび映画がはじまってから数分は呆然としていた。彼らの口から放たれる膨大な言葉を聞きながら、思った。これは映画なのか。ライブ・ドキュメンタリーか何かではないのか。しかし、彼らはそもそも、フィクションの世界の住人なのだ。混乱した。それまで当たり前にあるものと思っていた現実と虚構の線引きのようなものが、自分のなかで崩壊していくのを感じた。なにが面白いのかはさっぱりわからなかったが、そもそも映画なんてものに面白くある必要性はないんじゃないか、とさえ思えた。
 映画はいつの間にか終わっていた。劇場は明転し、客がいっせいに出口に向かっていく。ぼくも、心ここにあらずの状態で席を立ち、その群衆のなかに紛れ込みながら、建物を後にした。
 これが、ぼくにとっての、ミニシアターとの出会いだった。
それは、濱口竜介という才能との再会の機会をも内包していた。その数か月後、ぼくは『ドライブ・マイ・カー』を、TOHOシネマズ川崎で見ることになる。濱口竜介作品をミニシアターではなくシネコンで見られる事実に感激した。ちゃんと内容を理解したくて、見る前日に、あらかじめBOOKOFFで買っておいた村上春樹による原作本『女のいない男たち』を、猛スピードで読み終えた。翌日、いざ劇場に赴いて、映画を見はじめたら、村上春樹の小説より、どちらかというと、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』のほうが重要な参考文献として組みこまれていることを知った。そちらは未読。失敗したかも……と落胆しかけたが、それをささいなことだと軽くはねのけるように、映画自体が、とてつもなく面白かった。濃密な三時間。おまけに、舞台劇をストーリーに用いる辺りが『親密さ』をほうふつとさせてきて、グッとくるものがあった。濱口竜介、最高!

大作『親密さ』での「デビュー」以降、ぼくは水を得た魚のように、ミニシアターへ足を運ぶようになった。池袋にはじまり、渋谷や原宿、銀座、横浜などにも赴いた。思い出深い回はたくさんある。
去年の十月、横浜シネマリンの「ケリー・ライカート特集」に行った。アメリカン・インディペンデント映画界のシンボルのような存在である彼女の作品であれば、ぜひスクリーンで拝みたいと考えての行動だった。しかし、友人同士である男性ふたりが温泉地に行って、帰ってくるまでの様子を描いた『オールド・ジョイ』という作品を見ている途中、ぼくは、強烈な睡魔に襲われた。そして、かなり寝た。映画館でいわゆる「寝落ち」を経験したのは、はじめてだった。
似た現象はまた発生した。年末に、渋谷のシアター・イメージフォーラムにて開催された「カール・テオドア・ドライヤー特集」を見に行ったときだった。これもまた、サブスクなどでは配信されず、かつ映画史における重要な作品群であるから、ぜったいにこのタイミングで制覇しなければならない、と意気込んでいた。一日のうちに全四本を見ようとした。一本目の『奇跡』はまだ快調だったのだが、二本目の『ゲアトルーズ』で、寝た。終了後、ぼくはロビーでひどく落ち込み、あとに『裁かるるジャンヌ』と『怒りの日』が残っているというのに、そのまま建物を出て、帰途をたどった。外は暗くなりかけており、そこに広がる、光が闇に浸食されているような景色が、自分のそのときの精神状態を象徴している気がした。
慣れないタイプの映画を見るからこうなるのだ、と、しばらくの間自分を責めていた。もうミニシアターに通うのはやめよう、とさえ思ったあるとき、ひとつの文章と出会った。雑誌『ユリイカ』の2018年9月号。これは、濱口竜介のフィルモグラフィーを特集した号であり、彼と映画評論家・蓮實重彦による対談など、非常に濃い内容が展開されていて、ファンであれば、購入しない手はない文献だ。そのなかに、濱口竜介がかつて他の媒体に寄稿した文章の抜粋が挿入されている。題は「映画と眠りについての断章」。そのなかで彼は、「『退屈な』映画」を見ると睡魔に襲われてしまうが、それもまたある種の「充実」した体験なのだ、ということを前置きとして示しつつ、この現象を「スリープ」と名付け、次のように述べる。

「多くの場合、そうしたスリープを経た身体は、もう眠気に襲われることはありません。もちろん既に物語の脈絡は失ってしまっているし、それは決して取り返すことができないのだけれど、だからと言って映画を見て、退屈を感じると言うよりも、先ほども述べたような『充実』を画面から受け取ることの方がずっと多いように思います。(中略)『スリープ』という儀式を経て、身体が裏っ返るような、まるで映画専用の身体に書き換えられたような感覚があります。それはほとんど映画への供物のような身体であり、そこには『生きものの時間の終わり』があると言っても決して大げさではないと思います」

(「ユリイカ 2018年9月号 総特集=濱口竜介―『PASSION』『ハッピーアワー』『寝ても覚めても』・・・映画監督という営為―」kindle版、青土社、2018年、179頁)

これを読んで、ぼくは、救われたとまでは言わないが、気楽になった。自らの身体を「映画への供物」に変態させるとは、ちょっと普通ではないような気もする。それでも、これだけ極端なことを、謙虚さを帯びた文体で語ってみせる彼という存在が、なんだか頼もしく思えた。
ミニシアターには通いつづけた。たまに、眠るときもあった。しかし大切なのは、眠ることを恐れずに映画に真正面からぶつかっていく心なのではないか。都度、そう考えた。いまもぼくは濱口竜介に背中を押されつづけている。

二度、彼の姿を生で見たことがある。
一回目は、今年のはじめ、渋谷のユーロライブに『すずめの涙』という短編映画を見に行った際に、上映後のトークイベントで、本作の監督・野原位と、ゲストである彼の登壇した姿を眺めたときだった。  
本当は、前の席に座って、彼の姿を間近で拝みたかった。しかし、自分は整理券のシステムがいまいちよくわからず、上映前、劇場の後方で立ち尽くしながら、しばらくスマホのメール画面のなかに席の番号を探しているうちに、どんどんと席は埋まっていき、自分で好きな席を選ぶのだということを理解したときには、もう後ろの席しか空いていなかった。
上映後、トークショーがはじまった。遠くから見る彼は、マスクを着けていた。談義がはずむうちに、彼は喉が渇いたのか、床に置いていたペットボトルを手に取った。そしてそれを飲むために、マスクを外した。その瞬間、観客席の人々の視線が、いっせいに彼の顔に集中したように思えた。同時に、観客全員の息をのむ「ぶぅわぁぁぁぁぁぁ」という音が、ぼくの耳には聞こえた。おそらく、その場に居た多くの人が、映画本編を見ることだけでなく、濱口竜介の姿を目に焼きつけることを目的のひとつとしているのだろう、と思った。ぼくもそのひとりだった。
数か月後、彼は、米アカデミー賞のステージに立ち、オスカー像を手にすることになる。その報せをツイッターで知ったときのぼくは、嬉しさよりも、「まあ当然だろう」という思いを強く抱いた。
二回目に彼を見たのは、今年の十月末、TOHOシネマズ日比谷における『エドワード・ヤンの恋愛時代』のレストア版の上映後のトークショーだった。東京国際映画祭のプログラムのひとつだ。ぼくは、既にDVDをレンタルしてこの傑作群像劇を見ていたが、あのひとの姿を拝めるとなれば、見に行かない手はない。
彼は、登壇したあと、彼らしい言葉で、本作の魅力を語った。国際映画祭であるからか、彼の言葉は、即座にそばにいる通訳によって英語に翻訳される。あるとき、彼が、本作の女性主人公である「チチ」の名前を出した後に、通訳は、それを「ファーザー(父)」と翻訳して会場の人々に説明した。ぼくは、前から三列目の真ん中の指定席で聞きながら、心のなかで「あっ」と声を出した。間違った翻訳をされた彼はどんな反応を示しているだろう、と思い、見てみたら、彼もまた心のなかで「あっ」と声に出しているような気まずそうな表情をしていた。そのときだけ、ぼくの心と、彼の心が繋がったような気がした。

2022年12月10日、ぼくは、神保町のアテネ・フランセ文化センターにいた。青山真治追悼特集の最終プログラムである映画『AA 音楽批評家:間章』を見に来ていた。
ぼくの最も好きな映画『EUREKA ユリイカ』を撮りあげた偉大な映画監督・青山真治は、今年の三月に頸部食道がんで亡くなった。五十七歳だった。
整理券を受け取り、ぼくは、すぐに、好きな席に着いた。後方の端だ。
映画は、七時間以上におよぶドキュメンタリーだった。音楽批評家・間章(あいだあきら)について、彼を知る人々がひたすら語っていく内容だ。
はじまって一時間が経ったとき、睡魔に襲われた。そして、耐えきれずに、目を瞑ってしまった。ぼくは、薄れゆく意識のなかで、濱口竜介のあの頼りがいのあるテキストを、そっと思い出していた。