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note活動休止と自分語りと、オーダーメイド小説工房「いとう園」

 どうにも公私ともに生活が大きく変わりそう(転職&引越しのダブルブッキング)なため、無期限の休筆となりそうです。
 noteでお気に入りのnoterさんができ、また「オーダーメイド小説」という非常に大きなお宝を掘り出すこともでき、気持ち的にはこれからというところなのですが…

 まとまった時間を取っての執筆自体、継続が難しく、密かに進行していた長編も一旦筆をおくことになります。
 でもどうしてもやりたいものなら(ものだから)、必ず戻ってくる時があるような気がしています。何年かかるかわかりませんが、その時こそもっとちゃんと書ける時なんじゃないかと、うっすらと確信もしています。

 活動休止とはいえTL巡回はしますし、140字描写や日々のつぶやきなどの単発作品では出没するかと思いますので、ゆるーくつながっていただけましたら幸いです。
 ここまで諸々おつき合いくださり、本当にありがとうございます🙏🙏
 そして、今後ともどうぞよろしくお願いいたします😆😆

 ここからはとりとめのない自分語りになるので、お時間とご興味のある方だけお付き合いくださいませ。

 わたしにとって書くことは「自己表現」であり、「自分を知ってもらうこと」でした。
 物語というものには、作者にとって都合の悪いものは決して出てきません。お話の展開を阻害するものがでてきたところで、それすらも計算され、用意された予定調和。世界観も倫理観も作者の好きなように作り上げ、改変することができます。
 何もかも人並みにできないわたしには唯一、白紙(もしくはワードの新規ファイル)だけが「何でもできるフィールド」でした。そこにのめり込み、物語の生む幻想に支えられて現実を生きてきたのです。
 生身の人間でありながら、わたしはどうも半分ファンタジーの世界の住人らしく、いわゆる「見える」方にファンタジー小説を書いている話をしたら「そうでしょうね~。言い方悪いですけど地に足がついてないというか、半分そっちの世界で生きている方なんで、それしか書くことないでしょうね。むしろ他に何書きます?」と言われたことがあり、また別の「見える」方には「逆にその状態でよくこれまで精神疾患にかかりませんでしたね?」とまで言われてしまったこともあるのですが、確かに異存はありません(笑)。
 物語はわたしにとって娯楽ではなく、生きるために必要な栄養素のひとつでした。
 「自分の読みたい物を書く」という自給自足をして、なんとかやってきたわけです。

 けれどオーダーメイド小説というジャンルを思い立ち、noterさんたちからも声援をいただいて作品を書き上げたなかに、これまで自分が書いてきたものとはまったく違う手応えを感じました。
 「わたしは」ではなく、「あなたは」を語るおはなし。
 その人の人生を慈しむ物語をつくりたい。
 あるいは、名刺代わりに差し出せるような、その人を語る物語でありたい。
 そんな想いを込めた「人語」(ひとがたり)をつくらせていただいて感じた、「人とのつながり」という自己表現とは全く別種の幸せ。
 もちろんそれは、現実でのつながりとは少し違います。前述の通り、物語は都合のいい事だけ書けるわけですから、要するに作者の方もあれこれ体裁を取り繕えるわけです。いとうに実際会ってみると、いとうの物語とのギャップも多々あることでしょう(笑)。
 では、そこで生まれたつながりが嘘なのか? と言われたら、そうではないと思いたい。
 ほんの一部分だけでも、つながれたのは本当のこと。
 わたしたちは物語を通して、その人の内壁に描かれた景色に触れる。
 その作品でその人のすべてを理解することなどできないのだけど、ふつうに生活していたら一生観ることのできないものを目にすることができる。もし物語がなかったら、出会うことのなかった人がたくさんいる。
 近いようで遠い誰かと、物語のなかでゼロの距離になれる。
 そこで共有するものがダークなものでもいいし、あたたかく優しいものであればなおいいな、とわたしは願っています。

 以前、二次創作(しかもカップリングものww)を書いていたことがあったのですが、「みほさんの小説を読んでこのCPにハマりました!」「このおはなしを読めて幸せです!」とおっしゃってくださる方が少なからずいて、途轍もなく嬉しかったものです。

 某サイトではけっこうハードな描写や不幸な傾向のあるCPの中で、当時はひたすら甘い(都とミケーレのような)話を推進していたのですが、当時を振り返って、こんな記述をしていました。

“ それから何よりも、わたしの作品を読んでくれたひとたちから貰った言葉。ああいう話を書いたひとたちが、こういう言葉を貰うことはないだろうな、と思うと、これでよかったんだな、と納得できました。例え同じ「幸せ」という言葉を貰っていたとしても、「○○(キャラ名です・笑)に痛めつけられる××を見られて幸せ」なのか、「○○に大切にされる××を見られて幸せ」なのか。「××の気持ちを無視して無理矢理犯す○○を見られて幸せ」なのか、「××に心から慕われて、愛の言葉を交わしながら抱き合う○○を見られて幸せ」なのか。
 わたしが、読んだひとにどんな種類の幸せを味わってほしかったか、それを考えたら自ずと納得してしまったところがありました。
 人に多面性があるのはよくわかるし、そういう人たちが自分の残酷な部分や暴力的な部分を、彼らを媒介に共有しているというのもわかります(物語にそれを求めるということは、実生活ではまじめなんだろうなあ)。わたしも対象が彼らでないだけで、別の側面でそういう部分を誰かと共有しています。
 けれど書くということは、読んでくれるひとと「何を共有したいか」「どの部分で共鳴したいか」「どこに招きたいか」「自分の持っているもののうちの何を見てほしいか」「どんな気持ちになってほしいか」ということについて、何を選ぶかが根底にあるものなんだな、と、つくづく感じました。そして結局は選んだものを、読んでくれるひとと分かち合うことになる。
 わたしは彼らに本当に互いを愛してほしかったし、読んでくれたひととそういう気持ちを共有したかった。それに対して少しでも評価を得ることができて、ひとりからでも「幸せ」という言葉を貰えたことが、勲章です”

 物語はエンターテインメントであり、ビジネスであり、Xスポーツであり、記憶の保管庫でも、会議室でもあります。色々な用途があり、それぞれに価値があります。
 かつてのわたしにとって、サンクチュアリだった物語。それが今はコミュニケーション・ツールであり、リラクゼーションサロンになりました。
 物語を通して、誰かとつながれること。誰かに幸せを感じてもらえること。
 それが何よりの財産であり、醍醐味でした。
 noteでも、その宝物をたくさんもらえたことに感謝しています。

 ひとりよがりの物語しか書いてこなかった自分が、オーダーメイド小説を通して、物語をつかって誰かにしあわせを手渡せるかもしれない可能性を見せていただいた今、書くことへの想いは募るばかりです。
 物語に魅せられたひとりのnoterとして、より人と繋がれる物語を書くために、おそとで修行してまいりたいと思います。

追伸…もしも「何年かかってもいいから、いとう園で物語を書いてほしい」という気長な方がいらっしゃいましたら、こっそりご連絡くださいませ。裏口からご注文を承ります。

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