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ひよっこ親大五郎の備忘録

大五郎は親歴3年のひよっこ。
先日、『保育園を3日で退園する』というnoteを書いたところ、お友だちから「子どもが意見を言えること、親が意見を受け止められることはすごい」的なご意見をもらった。
そんな風に肯定的に受け止めてもらえて、心が救われた。

あくまで自分用のメモとして、いま自分が子に対してどんな接し方をしているか残しておきたいと思う。
これが正解でも何ではないし、後悔する日がくるかもしれないので、まちがっても参考にはなさらないでくださいm(_ _)m笑

大五郎が子に対してやってること

  • 自分で決める

  • ありがとう、ごめんね、をちゃんと言う

  • 「〜してください」とお願いする

  • とにかく否定しない

  • ちゃんと怒る

一つずつ解説します

自分で決める

とにかく、子に対して『自分で決める』ことを意識してる。たとえば、「ごはんを食べなさい」とか、「服を着替えなさい」など、親が一方的に指示する行動喚起はあまりしない。

理由は、『指示で人は動かない』と大五郎が思ってるから。

じゃあ、どうやって行動を促すかというと、結局『自分がやりたいと思う』ように見守るしか方法はないと思う。であれば、『(子どもの気持ちを待ち続けていたら)いつまでも動かないのでは?』と心配される方がいるかもしれないが、実際はそうではない。

究極のところ、親は『指示』ではなく『選択肢を提示する』ことぐらいしか、できない存在だと思ってる。『指示』することによって、「人の言うことを聞く人」にはなるかもしれないが、それは親にとって都合がいいだけで、子どもにとってメリットはあるんだろうか。

それよりも、『自分で考えて動ける』方がよっぽどいけてると思う。だから、「いかに自分で考えて、自分の責任で行動ができるか」ができるように日頃から接したい。

人間は、どんな人であれ『自分にメリットのある行動をとる』と思うし、逆に、『自分にデメリットのある行動は避ける』ともいえる。
だからこそ、親は選択肢を提示して、メリットデメリットをできるだけ伝え、それを本人が選べるようにしたらいいんじゃないかと。

「ごはん食べなさい」ではなく、「ごはんは食べなくてもいいし、食べてもいい。どっちでもいいけど、自分で決めてください。ごはんは、いまの時間しか食べられません。お腹が空いても後でありません。おやつは、ごはんを食べた人だけが食べられます。ごはんを食べるか食べないかは、自分で決めてください」
すごーく露骨な表現だけど、イメージとしてはこんな感じ。

別に、これでごはんを食べなくても怒らない。ごはん食べないことに決めたのは自分だもんね。別にそれに対して怒ることはないよ、と。

なんかこうやって文字に書くと、めちゃくちゃ怖い親みたいだw

ありがとう、ごめんね、をちゃんと言う

もうこれは、反射神経を鍛えるみたいな感じだ。わざとじゃなくても、相手に痛いことをしてしまったら秒で謝る。相手が物を取ってくれたら、秒でお礼をいう。

これを日頃からトレーニングしてる。家族であっても、親子であっても、お互い他人だから、ありがとうとごめんねは毎回ちゃんと言う。

私がおやつを渡すたびに「ありがとう」を強制する(?)し、子が何かしてくれるたびにありがとうのオンパレードをする。過剰と思われるかもしれないが、ありがとうは過剰くらいでちょうどいいと思っている。

ごめんねは、小さい子にとっては結構訓練がいる。自分が悪くない、と思う悔しさもあるから、素直に謝れないときもある。けど、痛いことをした、何かを壊した、こぼした、など実害が発生してることに対しては、自覚があるものに対してはすぐ謝るようにしてる。このおかげで、お子はごめんねさえ言えばすべて許されると思ってる節があるので、ネクストステップを考えねばならない。w

「〜してください」という

これは、やっぱり「親だからあたりまえ」とか「子どもだからあたりまえ」のように、お互いにお互いを軽視しないための策として意識してること。

おやつの袋を開けてほしいときに、「ん!」って渡して開けてもらうのではなく、「あけてください」とちゃんと言う。
親だって、子どもが開けられないのはわかってることだから、無言で開けて渡してしまいがちだ。が、しかし。俺たちは他人だ。他人が同居してるだけだ。

養育者という立場ではあるが、結局はお互い他人様だ。だからこそ、阿吽の呼吸で何も言わなくてもテレパシーで通じるという甘えに頼りたくない。
言葉で言わなければ通じない。それを、小さな行動一つ一つに意識して落とし込んでいかないと
「親だからやってあげてあたりまえ」「子どもだからやってもらってあたりまえ」になりそうな気がして、一応意識してる。

とにかく否定しない

といっても、大五郎はダメなものはダメというので(後述)、すべてを何でも許容するわけではない。ただ、正論で否定しない、みたいなことを大事にしてる。

たとえば、子どもが黄色いものをみて「ミドリだ!」といったとする。正常な大人であれば「それは黄色だよ」と指摘するかもしれない。しかし、大五郎は「ミドリなのか!そうなのか!うっひゃー!」みたいに、ミドリをそのまま楽しむ。

「子どもは間違ってて親が合ってる」とは微塵も思わず、「親が見えてる世界と全然違う世界を見てるかもしれねぇ!すげぇ!」みたいな感覚で話す。そうすると、否定のしようがない。この世界には無限の可能性があるから、私の狭い視野だけでみてる世界を正しいなんてまったく思えない。

そうやって接していると、どんな発想もどんな意見も「へー!」「そうか!」と聞ける。子もどんどん教えてくれる。会話がずっと楽しい。

もし、どうしても指摘したいことがあれば、「これは黄色だよ」と伝えるのではなく、「私には黄色にみえるけど、きみにはミドリに見えるんだね!いろんな見え方があるんだねー」みたいな伝え方をする。

ちゃんと怒る

ちゃんと怒りすぎて、最近は子が私が怒るのをすごくびびっている。びびらせたいわけじゃないんだ。この匙加減はむずかしい。

とくに、わが家は家に大人が1人なので、全役割を私がやらなければならない。何でも甘えられる存在であり、厳しく喝を入れる存在でもある。

できることなら、一ミリも怒りたくないけど、大人という立場でしっかり『ダメなものはダメ』と怒ることは大事だと思ってる。それは、自分の子に対しても、まわりの子に対しても同じ。

『モノを投げてはダメ』
『人をぶってはダメ』

怒りながら、怖がる子の表情や泣き顔が切なくて、すぐにめげてしまうこともある。泣いたあと慰めるのも、さっきまで鬼だった親の役割で切ない。ずっと慰めていたいなぁ〜

まだ具体的に理由はわからないけど、私は結構『怒ること』は大事だと思ってる。怒るといっても、もちろん感情的に怒るではなく、厳しく喝を入れるというイメージね。この役割が、年々減ってる気がして、最近は意識していたるところで怒ってる。(やめて

怒り役なんて一ミリもやりたくないけど〜やる人がいないからやるしかねぇんだ〜(善意ってこわい例ですヨ

なぜ私が怒ることを大事だと思ってるかは、もう少し言語化してみたい。

いったんこの辺まで、また気づいたことをメモしていきます。私の備忘録用。

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