我々の不幸を慰むのは

先日の日記で、「人生における解決不可能な問題、往々にして不幸を伴う他人のそれに対して寄り添うしかないのだろうか」、と結論したのだけれど一緒に酒を飲むなどはまさにそういうことなのかなあとか。

てか、あれが親密で個人的なイベントだとすると、それを自弁できないひとたちがアウトソースな祝祭を外に任せるのであって傘空さんとかはむしろそれをもっとわかりやすく表現してた。

自意識補填ビジネスと私 - 傘をひらいて、空を http://d.hatena.ne.jp/kasawo/20141202/p1

調達、贈与、消費 - 傘をひらいて、空を http://d.hatena.ne.jp/kasawo/20150106/p1


承認欲求とか良い子良い子褒めてくれるものとか、あるいは、なにかをつくり軽く褒めるとかそういうの。われわれの消費は洗練されてきてるのであまりわざとらしいのもいけない。


そういうカタルシスをどういったもので感じるかは人それぞれだろうけど、そうかんがえると自分が消費財的にそういうもので依るものといったらどういうものなのだろう?とふと思う。自分を満足させるそういうものってあるのだろうか?


そこでゲージツとか哲学と詩とか出てくるのだろうけど、ゲージツなとこ、ソリッドなとこまでいかなくてもわりとゆるゆるにそのへんが満足されるのが映画とかアニメなのかなあと。それも過去の。変な価値観から自由でBGVとしても楽しめるような。ちょうど「レオン」で殺し屋の主人公が楽しんでいたような。


グランドブタペストホテルもそういった作品かと思った。ベルヴィル・ランデブー同様


クソみたいな現実に対してリアリズムと感情の切断処理を、アイロニカルな没入を迂回しつつシニシズムの季節を経て、われわれが最後に辿り着いたのは自虐を含んだスラップスティックな人間愛だった。



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