花の色はうつりにけりないたづらに


李禹煥関連で、

李禹煥、2000、「余白の芸術」: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/417115007.html

「既存の形式・様式に囚われた自然・かわいい・きれい・おいしい写真など近代社会の価値観を反映したナルシシズムの反映に過ぎない(すなわち衒示的快の表象な競い合いであり自らによるマトリクスへの参入)」、みたいなこといったけどそれとは別にそういう部分で快やおもしろみを感じるところがあるのだったらソレハソレとして野放しにして愉しんでも良いのではないか?みたいなのがある。

それもあってnoteの画像クリップでそういうもの、いってみれば自分の中の俗な快の部分も編成してリフレクトしてるわけだけど。


風景の詩|m_um_u|note https://note.mu/m_um_u/n/n381b6a0b62c4


body.|m_um_u|note https://note.mu/m_um_u/n/ne1ee4e528980

(ちなみに↑のクリップだと自分の俗的な、あるいは反応的な嗜好としては色があるもの、ポリシー的な嗜好はモノクロなものとなる)


自然とか、なにかを食べておいしい/たのしいとかいうのはそういう部分での自分たちヒトの規制・限界であり、その制約があるがゆえに面白いところもあるのかなあとか思ふ。

自然界のいろいろな対象のなかでも特に生物に眼をむけて,そのあり方と活動の関係をつきとめようとする場合,そうした知識を得るためには,対象を個々の部分に分析してみることこそ,もっともふさわしい方法だとわれわれは考えている。実際,分析の道を歩むことは,われわれの知識をひろげるうえで大いに役立ってもいる。自然を洞察し展望するうえで,化学や解剖学がわれわれに大きな関心をもたれる方々にはあらためて言葉を費やして想起していただくまでもない。
 しかし、このような分析的な研究をたえずつづけていると,多くの欠点も生じてくる。生命ある存在を分解してゆけば,たしかに所要素に到達はできる。だが、この所要素を集めてみたところで、もとの生命ある存在を再構成したり,生の息吹きを与えることはできないのである。このことは有機体はもちろん、多くの無機物についてもあてはまる。
 だからこそ学者たちもまた,いつの時代にあっても抑えがたい衝動を感じてきたのである。それは,生命ある形成物そのものがあるがままに認識し,眼にみえ手で触られるその外なる部分部分を不可分のまとまりとして把握し、この外なる諸部分を内なるものの暗示として受け止め,こうしてその全体を幾分なりと直観(アンシャウウング)においてわがものとしよう,という衝動である。このような学問的欲求が芸術的衝動と非常に密接な関係にあることは,事細かに述べるまでもない。
 したがって、これまでにも芸術や学問や知の歴史において,ひとつの学説をうちたて,完成させようとする試みがいくたびとなく繰り返されてきたといえるのだが,われわれとしてはこのような学説を形態学(モルフォロギー)と名づけたいと思う。

(ゲーテ『形態学序説』)



人の肉体、あるいは思考も変化しつつ同一、同一にして変化するという変な側面がある。理性で捉えれば同一、変化しないものであるべきなんだけど。そういうところもあってゲーテが色彩に興味をもったのかな。

そして、その興味・関心は視角論において残像という形で結実した。「人の視覚は中立客観ではなく残像現象に支配されている」というのはゲーテに代表されるものらしい。


色彩と同じく人の思考は移ろう。そのときのバイオリズム、環境が思ったより影響する(cf.「太陽が眩しかったから」)。



http://b.hatena.ne.jp/entry/orangestar.hatenadiary.jp/entry/2015/04/11/080000

落ち込んだりもするけれど私は元気です - orangestarの雑記 http://orangestar.hatenadiary.jp/entry/2015/04/12/182936


ついったで「しんどい理由、メンがヘラってイラつきつつも耐えてるときに理解してくれようとするのはよいのだけど理由を聞かれるとつらくなるので放っておいてほしい」みたいなの見つつ自分にもそういう時期があったなあとか思ふ。励まそうとするほう、つらいけど具体化されない(すると陳腐になってコレジャナイある)ので耐えてるほうの両方とも。

そういうときになぜ?をせっつくのではなく単にそらしてぼんやりできる場に自分も成れるのかなあとあらためて。

(前略)ぼくは森のような男になろう。たくましくて静かな大きな木のいっぱいはえた森みたいな男に。そのなかでは美しい金色の木もれ陽が静かにきらめいていて、みんながやさしい気持ちになってお花を摘んだり動物とふざけたりお弁当箱をひろげたり笑ったり歌ったりできるような、そんなのびやかで力強い素直な森のような男になろう。そして、ちょうど戦い疲れた戦士たちがふと海の匂い森の香りを懐かしんだりするように、この大きな世界の戦場で戦い疲れ傷つきふと何もかも虚しくなった人たちが、何故とはなしにぼくのことをふっと思い浮かべたりして、そしてなんとはなにしに微笑んだりおしゃべりしたり散歩したりしたくなるような、そんな、そんな男になろう…………。

庄司薫は中村紘子『ピアニストという蛮族がいる』の中で再生した 後編|新しい「古典」を読む|finalvent|cakes(ケイクス) https://cakes.mu/posts/9025


おそらく、彼女たちが自分にもとめていたのはそういうものだったのだろう。答えではなく。


ゲーテの詩、あるいは考え方(哲学/思想)はノヴァーリスを思わせる。けれどノヴァーリスからするとゲーテのそれ(ウェルテル)はまだ理性的だったみたい。両方とも神秘なそれでは共通していたのだろうけど。


ノヴァーリスのそれだと浪漫やら観念やらが駆動しすぎて、ゲーテのそれはもうちょっとそこに俗というか、身体を含んで自然と対話する感じなのかもしれない。

それは理性とも違って、理性以前にそこにあって感じるものなのだろうけど。


関連で三木さんの著作を発見して、おもしろそうだからそのうちザラッと読んでいこうかと思う。

「ゲーテの『自然』について三木成夫とゲーテとを結ぶもの」 http://www.geocities.jp/seto_no_shorai/3_gakushukai_genko.htm

三木成夫の生涯と業績 http://www.geocities.jp/seto_no_shorai/Miki-shogaitogyoseki_0.htm


(cf.「海獣の子供」)


people color|m_um_u|note https://note.mu/m_um_u/n/n5b25db164da5


(このなかでいちばん格好つけてない/様式化してないのは日本の茶摘みおばちゃんたちの写真だな)





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