かくかくしかじか

起き抜けに心地よい筋肉の張りがあって気分が良い。昨日の筋トレが過不足なく成果してるみたい。ちゃんとアイシングもしたし。


昨日一昨日と雨っぽかったのでだいたい家で過ごした。

一昨日はけっこう寝てたのでその分を取り戻すように読書。朝昼夕、、とまではいかなかったけど夕方抜きにしても300頁ぐらいは読めた。まあ情報確認的な内容のものだったから読み飛ばしたというのもあるけど。


時間的余裕もあったので夕飯後にちょっと読書感想文的なことをする。


これ自体はどうということもなく、「もうちょっと気の利いたこと書けたかなあ。。」ぐらいの少し残尿感のあるエントリだけど。これをもう一度見直す気になったのは寝るときに読んだかくかくしかじかでこの内容が気になったから。





「四角い画面のなかで誰かが私のマンガをクソだといっても、それはその画面の中だけのただの文字でしかないからなんともおもわない」


そんなものはわたしのなかでずっと響いている先生の声に比べたらただの文字にすぎない。

わたしのマンガはたしかにクソで下手かもしれないけど、下手でも何でも描き続けるしかない。絵を描くことが仕事なんだから、絵を描くために生まれてきたんだから。


それがあの頃果たせなかった先生との約束だから。






文字だけの最後の一コマは「絵を描くことが仕事」の漫画家にとっての絶唱のように思えた。



そういうのもひとつの語りで、いい加減なところもあれば真面目なところもあるのだろうけど。

東村さんというとネットほかだとけっこう叩かれてるので、それに対する答えのようなものかなとか。


ネットでの叩きや人の言葉が気になるのは自分に対するプライドとか自意識のようなものがあるからで、でも、一度自分のことをクソだと思ってしまえば、あるいは、償いきれない罪の意識と責任-義務のようなものを思えば、そんなものはどうでもよくなる。しょせんは暇でなにかをこじらせてる人たちの衒示的消費なので。

逆に、そういうものが気になるのはまだまだ自分のことが大事なだけで甘ちゃんなのだろうなあとか。


そういうことは自分もちょこちょこ思う。


まあ自分が思うだけでそれが東村さんの思いと同じというわけではないだろうけど。



「下手でも何でも、他人からなんといわれようと描かなければならない / 描いていく」


そういうのを見た時に自分も無責任で偉そうに下手だなんだというところがあったかなあと昨日のエントリを省みた。



「学生のモラトリアム時代は遊んでばっかで、もっとあの頃に描いておけばよかった / 描けたはず」というのを見つつ彼女と同窓だったひとがいっていた「でも、見えないところで努力してる感じだった」という言葉を思い出した。あるいは「あの頃は無駄だった」というのも言い過ぎなのかなあとか。まあそれは仲間やその思い出を卑下するわけではなくて、怠けてた自分に対する鞭なのだろうけど。一部で批判されている「タラレバ娘」や「ヒモザイル」もそういう思いが底のほうにあるのだと思う。



(下の方の写真のひとが知り合いぽい、けどちがうかもしれない)


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