「鉄血のオルフェンズ」の終幕とガンダムサーガについて
少しまえに「鉄血のオルフェンズ」がおわって、けっこう楽しみにしていたし感情移入してみていたので残念 / 喪に服す感がしみじみあったのだけど、流れてくる感想やら解釈をみているとイラッと来て反応しつつ、それでもうおしまいにしもよかったのだけどあいかわらずそういうのが流れてきてイラッとくる / イラッときたときにいちから説明するとめんどい、のでついったのログのまとめ的に。
このへんは、1973年以降のサラリーマン社会という牧歌的な環境において「新人類」と揶揄され脅威とされた人たちはマイコン的なものをさわるだけでも異能とされていたのに、ゼロ年代、あるいは90年代以降の就職ではコンピュータを使えることは当たり前、かつ、それでプログラミングなどできても「遅い」「納期が」と過剰にノルマを課せられオーバースペック的な期待をかけられる社会のメタファーといっても良い。
以下はコレとは別の日の。「マクギリスが破れたのはラスタル的事情・背景を考えると当然」みたいなのをみてイラッとして。
あるいは、それらがゼロ年代以降のサバイバルな若者労働者の心象風景となる。
それらは現代社会におけるポストコロニアル的なリアリティ(あるいはそれらを同心円的に含んだ先進国内部でのポストコロニアル的環境/差別)のメタファーともなる。
つまり、ガンダムの物語というのは、「スター・ウォーズ」やハインラインをパクって玩具メーカーがプラモデルを売るためにありあわせで作ったものというのはありつつも、基本線として団塊世代の「父のないこと」を基点とし、団塊ジュニアたちまでそれらが継がれていきつつ解決されていない、現在進行形的な物語となる。
「父のないこと」というのは核家族化とサラリーマン化がすすんだ高度成長期に「家庭に父がいない」=「父性がない」ということを焦点とする。父性がない ≒ 社会性への窓がない、ということ。あるいは国家も含めた超自我的なものとして、安心してよりかかるべき規範としての父性の不在。
ガンダムサーガではその不在を埋めるべく兄的な存在としてシャアという存在が何度も出てきて社会性の窓として機能していた。すなわち「甘いな、坊や。そんなことでは死ぬぞ?(おまえの性能をみせてみろ)」的に主人公を戦場へ誘い・鼓舞していくライバルとして。そこでは不在の父に変わって殺される存在のひとつとしてシャア的なものが機能していた。
あるいは、それに代わる存在として主人公の周りの女性たち。
ガンダムサーガのキーワード的なギミックとしての「ニュータイプ」というのはこういった情況・アポリアを打破するための仕掛けとして期待された、スター・ウォーズでいうフォースのような概念だった。
「とりあえず主人公が超能力(ニュータイプ)を起動してすべての戦場を超越するスーパーパワーを手に入れれば戦争は終わるだろ?」、というような。
しかし、それが戦争全体を集結させるほどの超パワー、ではなく、せいぜい戦術兵器のひとつとしてしか期待されないように変化していったことの矛盾について問うていたのが「ガンダムUC」だった。
「オルフェンズ」ではニュータイプ的な力(ここでは「阿頼耶識システム」)にそれほどの期待はされず、主人公もシャア的な存在も戦場の華と散っていく。
ニュータイプという個人や超能力に期待、というよりは周りの環境で、残されたありあわせのものを集めて政治的に解決していった。そういった意味ではNPO的な解決を意識したものだったのかなという感じ。
しかし、ガンダムサーガで問題となってきたエディプスコンプレッス的な課題はそこでは昇華されず依然として残った。エディプスコンプレックス的な課題、あるいは、(暴・金)力や国家(社会)幻想に回収されていく個人を性を仲介の場として越えていく可能性について。それは大島渚的なモティーフでもあった。
こういったモティーフに対して「ガンダムオリジン」ではシャア≒兄的な存在からフィーチャーしていっているといえるのかも。それはスター・ウォーズでいうところの前史、ダースベイダー的な畏憚ということになるのだろうけど。
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