川瀬巴水_駒形河岸

暑中一休 / いのちの値段

川瀬巴水カレンダーが少し前からこれに変わってなんとなくいまの現状にあっている感じで気に入っている。駒形河岸での一景。馬夫は初夏の日陰で一休みだろうか。


きょうもそれなりに暑く、日中も30度を超えたようだったけどジリジリと肌を灼くほどの灼熱ではないのでまだ大丈夫感はある。去年の猛暑時の暑さを文字的に覚えているのだけど、ほんとに暑くなると日中に太陽の光で肌をジリジリと灼かれる感覚が本当にあるし、そういう日にバイトだと1ターン作業するごとに給水していた。ていうか、給水しないとヤバイなということで意識して給水してた。少し前にもそれに似た暑さにはなって、いよいよ一個目のバイトの水分消費量が3本(500ml×3→1.5リットル)を超えたなとおもっていたのだけど、そこからするといまは落ち着いている。きょうはけっきょく2本も消費しなかったし。食事も含めて。


もうすぐ、これから本当の夏がやってくるのだろうとおもいつつ「まだ梅雨はあけないのかねえ」とかいっていたら「きょう梅雨明けしたそうだよ」と。

まあそういえばそういう天候になったか。今年の梅雨明けは例年に比べて遅かったのだなたぶん。でも、例年通り、夏というのは6月終わりに一度むわっと暑くなってから梅雨ですこし下がり、それが開けてからまたグワッと暑くなるのだ。



そういえば今日の夕暮れはそういった夕暮れだったのかもしれない。


18時半ごろの橋の上から。いつもこの橋を通るときに夕暮れ時だと嘆息するような雲と空の気炎が見えてこのパノラマ全体をこのまま写真に収められたらと思う。

バイクで渡るため危ないのでめったにしないけど、今日は信号待ちがちょうどよかったし、なんとなく気分も乗ったのでiPhoneの電源を押して、上に素早くスライドさせてすぐ出て来るアプリのなかからカメラを選んで撮った。


バイト中の坂からの光景が江戸時代からの夕焼け名所になってるのだけど、きょうは夕焼け時には合わず。代わりに橋で雲のたなびくのを見て。




ひとつ前の日記でサガミハラの犯人について触れたけど、そのなかでひとつ心に残ったことがあった。というかTLの人たち的にもこの言葉が心に残ったようで、それを受けてすこし残ったのだろう。


「生きてる意味の無いひとたちだから」



自分的にはそんなに思うこともなく、たとえば植物状態の人たちに日々接しているような人たち的には鬱に入るとこういうことを思うのかもなあというのは以前から思っていたので特にどうということもなかった。その考え自体はその場のストレス環境から出た幼いもの、あるいは、短絡的なストレス反応であり、たとえば、「死ね」だの「クソ」だのいうのと似たようなものでその派生程度なのではないかと思っている。いわゆる魔が差すというのはこういうものなのだろう。西洋でも日本でも昔からこういった感情が現れた時には「魔が差した」として相対化し処理してきた。そう思えば昔のほうがこういった感情への向き合い方は優れていたのかもしれない。いまだと「魔が差す」といった考えは前近代的で稚拙な非合理的なものとされ、結果的に自身の幼い合理性が正当化されたりもするのだろうから。


その程度の感じだったのだけどTL的にはそういった言葉に想ったよりショックを受けた人たちがいたみたい。TLだけではなく世間的にも。それもあってからその後の報道、というかNHKのニュースなんかでは同文言は「容疑者によって差別的表現があった」として換えられていったとか。


前の日記でも言ったけどこの言葉に対しては「おまえがそれを決めるな」であり「おまえがその可能性を否定するな」程度で足りるものだと思う。


同様のことは実際に障害者に接している人も言っていた。

あるいは、われわれはそれを、そういったかすかな希望の灯火の場をみつめ表していくべきなのだろう。それが全体のすべてではなく、すべての障害者環境がそのようになるというわけではないのだけど。あるいは、障害者だけではなく、すべての不幸の環境がそのような微かな希望、あるいは勇気に照らされるわけではないのだろうけど。


以前に見た「あん」という映画ではこの辺りについてどのような言葉があったか思い出してみようとするに忘れてしまった。らい病、ハンセン病として長年隔離されていた女性の話。この機会にもう一度見てみても良いのかもしれない。あるいは録りためているらい病に関するETV特集を。

重度の重複障害者の現状もよく知らないので関連本を見ていくのも良いかもしれない。



関連ですこしネコのことを思った。



下世話な話だけど3まん4せんえんという病院代はペットショップなんかで血統書付きのツルツルかわいい子猫を買おうと思えば買えるお金で、世のペットをとっかえひっかえする人たちはそんな感じで買い換えてるのだろうなあ、とか。

いわゆるコスパ的な考え。


それは経済的合理性だけからすると甚だ正しいのだろうけど、とか。いのちの値段というのはそういう場ではほんとにあるのだなあ、とか。

犬猫の場合はそんな感じでよりお手頃身近に感じられやすいけど、たとえば自分に障害者の子供が生まれた時にも、あるいは生まれそうなときにもそのようなことは思うだろう。生まれる前にダウン症の赤ん坊かどうかわかる、とかで。

障害のある子供を育てている人が子育てとか日々の生活で悩んでる、自信を失っている時にそのようなことを聞いてみたことがあった。

「こういう話も何だけど、あなたは障害のある子を育てようと思った。そして実際に育てている。そのことがまず尊敬することなのです」

「こういってはなんだけど、たとえば生まれる前に障害がわかっていたら生むのをやめようと思ったりはしなかったのですか?」

「…わからない。そういうことは考えず産んで育てていた。育てる過程でその大変さを思ったこともあったけれど、生まない、という選択肢は最初からなかった」






世間ではお中元と交代するように暑中見舞いが見え隠れ



夏がはじまる









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