ドストエフスキイの生活

小林秀雄「ドストエフスキイの生活」読み終わる。


ブログにしてもいいけどだいたいはnoteに書いたし、ドストエフスキイ自体も読んでない+そんなに長いエントリにして時間かけたくないのでこのへんで簡単なメモを最後にしとく程度に留める。


全体の印象としては以前にもメモったようにドストエフスキイというのは実存主義小説家ではなくプロレタリア文学の位相だったのだろう。プロレタリア文学に属する、というのともちょっとちがって、プロレタリア文学を基軸にしつつもそのリアリティの無さに異議を唱えるもの。

森の妖精のような爺として|m_um_u|note https://note.mu/m_um_u/n/n23d7f656af4e

当時のヨーロッパ、ロシアの情況からプロレタリア文学が当然だった、けれど、その形式のリアリティの無さに異議申立て的な詳細を加えていった。


その際、基軸になったのはシベリア抑留を通じた人格の陶冶であり写実的リアリズムだった。まず対象をリアルに描くことを旨とする。


晩年にかけては理知では救えない魂の救済を求めてキリスト教的な主題が付されていった。


この辺りが実存主義とか生の哲学的なものに共通するようになるのだろう。


ドストエフスキイの代表作は「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」とされ、まさにそうなのだろうけど、こういった背景からそれら以前に「死の家の記録」が重要になってくる。


デビュー作「貧しき人々」からその写実性においてゴーゴリを期待されていたようだけど、抑留体験が昇華された「死の家の記録」によってさらにゴーゴリ(「死せる魂」)的なテーマと描き方を継いでいくことになったみたい。


この作品には、流刑以前の作に見られた青年らしい憂愁は全く失われているが、すでに「二重人格」に見られていよいよ爛熟した病的なほど鋭い心理分析的筆致も、ここでは一時姿を消している。無論後期の作に現れた力学的な構成もない。燃え上がるような思想と情熱との相克もない。彼のリアリズムが、この作品ほど直截な素朴な姿をとった事は後にも先にもないのである。
犯罪の英雄たちとの共同生活を強制されて、彼が悟ったものは空想を交えぬ現実、単なる現実らしい現実ではなかった、その計りがたい異常性であった。この異常性に対する率直な驚きのうちに民衆理想化の種が撒かれていたのである。兄への手紙や、「死人の家の記録」に見られる民衆賛美の言葉に何等空想的なものがない様に、ここから成熟した晩年の彼の民衆礼拝に何等浪漫的なものはない。ただあるものは異常さである。トルストイやツルゲネフの様に、民衆との広い尋常な接触の機会を持たず、この言葉の背後に足枷の音を聞き、囚人服の色を見ずにいられなかった人間の異常さがあるのだ。



この辺りの「まずは基本としてリアリズム、写実を徹底する」というのはセザンヌを想わせるし、フロベールにもつながるものに思える。


それらはヌーヴォー・ロマンや現代アートにおける基本(まず既存の形式にドライブされたフィクションを疑い解体する)と軸を同じくし、「その上で新たなアイデアルを表現していく」というところではポストモダンを超えたモダニズムの復権を想わせる。


正宗白鳥の理想主義はこういったものだったのではないかと思うし、それは吉田健一的なものにもつながる(言葉-形式-様式-ドラマトゥルギーを<嘘>として解体したところで生まれてくる言葉の健康的なアソビ、エクリチュールの快楽に身を任せる)。


思想と実生活メモ|m_um_u|note https://note.mu/m_um_u/n/n9871efcef5cb


形式と内容のバランス、想像空間と身体のバランス|m_um_u|note https://note.mu/m_um_u/n/n7dc5b0dc7d0d


自らがシンボルを生きる動物であることを相対化し俯瞰しつつ、「で、あるなら」とそれを敢えて楽しむようにする。


そういったものだったのではないかとおもいつつ、とりあえず金井美恵子、フロベール、ドストエフスキイのあのあたりもそういう視点から読んでいこう。


金井美恵子 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E4%BA%95%E7%BE%8E%E6%81%B5%E5%AD%90


ヌーヴォー・ロマン - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3









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