内藤礼「恩寵」を見て

所用で皇居ら辺までいったのでついでに気になってた展示を見に銀座に行く。


Lee Ufan ’70s Ⅱ | たけだ美術 Takeda Art Co. http://www.takeda-bijyutu.com/exhibition/lee-ufan-70s-%E2%85%A1/

初心を問い直す『椿会展』に赤瀬川原平、畠山直哉、内藤礼ら6作家 - art-designニュース : CINRA.NET http://www.cinra.net/news/20150408-tsubakikai

11時半頃ついたので洋食あづまで食事を済ませてから2つの展示に行く。それにしても中国人多くなったなとか思いつつ。


最初に李禹煥のほうをみにいって、こっちのほうはハズレだった。「繰り返し」と「かすれ-消失」(時間?)をモティーフにしたいくつかのタブローがあっただけで。李禹煥的な石や鉄はなかった。まあ小さいギャラリーだから仕方ないのけど。


つぎに資生堂の方へ。


こちらもそれほどピンと来るのないかなあ(赤瀬川原平さんの追悼的なものぽいなあ、、日記的な作品?が展示してあるし)とかおもってたんだけど内藤礼さんのインスタレーションでしばらく立ち止まって考えてしまった。


この読みも答え合わせすると結果的にハズレではあったわけだけど



2009年に鎌倉館で行われた個展
「内藤礼 すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」に際して、この場所のために制作された作品です。
これからの季節、蓮池を背景に、自然の空気や光と作品との一体感を体験いただけることを楽しみにしています。

内藤礼《恩寵》がテラスに展示されました : 神奈川県立近代美術館 http://www.moma.pref.kanagawa.jp/public/HallNewsDetail.do?no=1303267918820



■ 本展のタイトル「すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」はどんなことを示唆しているのでしょうか。
ジョルジュ・バタイユ(フランスの思想家)の著書にある、動物は水の中に水があるように、世界とつながってひとつになっているけれど、人間はたぶんそうじゃない。死を知っているし、意識があるから、という一節に何年も前から興味を持っていました。
私には、その人間の生のなかにもそういう世界との連続性、つながりを取り戻したい、回復したい、それを知りたいという気持ちがあります。それで第一展示室の《地上はどんなところだったか》は生と死を自由に行き来するだとか。例えば、1階の《精霊》という作品は、私がかたち作るのではなく、風によって自由に動くものの姿です。風に任せて、光に任せて、形や動き、輝き、速度などもののあり方が刻々と変化する。ビーズの作品は重力によって作られた姿であって、私がつくったものではない。自然がかたちづくっている。自然と切り離すことのできない純粋で運命的な関係から生まれてくるということで、それは世界とつながっていると、私は感じているんですね。
■ その上に展示されている白い紙でつくられた《恩寵》は、細やかな作品ですが、この作品との関係が気になります。これらは同じように考えたのでしょうか。
その布によって、ああいう場所になるなと最初に思いました。その後で、紙の作品が生まれました。「おいで」と書いてある紙。それは生まれて「おいで」という呼びかけ。あらゆる生命、私たちも含めて。「こちらにおいで」と自然が呼んでる。
人間が呼ぶのではなくて、人間の内部の自然がその人自身をこちらに生まれておいでと呼びかける。生まれた後も、「おいで、おいで」と生き続けさせてる、というふうに私は感じている。その積み重ねがいっぱいあって、模様もいっぱい同じパターン、インフィニティ。それであの紙をおこうと思った。


内藤礼 アーティスト・インタビュー | TABlog | Tokyo Art Beat http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2010/02/interview_rei-naito.html


展覧会タイトルとして使われた「すべて動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している」は、ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』(湯浅博雄訳/人文書院1985/ちくま学芸文庫2002)の一節であるという。世界は生命で満ちあふれているというような意味合いのこの言葉は、まさに静かなる叫びを喚起させる。ハイデガーが「フランス最高の頭脳」という賛辞を呈したことで知られるバタイユの神秘主義の感覚や「内的体験」の思考の鋭さは、本展で具現化されたようだ。
そして内藤の作品からは、母の偉大な存在を感じずにはいられないところも、人々の心を打つ重要な部分だと思っている�。
母という強さ、温かみ。この世に存在する・しないに関わらず、その顔を知る・知らないに関わらず、誰でも保有する存在が、母親だ。
母という存在性は、自分を生んだすべてのものに当てはめることができる。つまり、自分を産んだ母のみならず、その母を産んだ母、そのまた母、つまりは自分の遺伝子も「母」というかたちなのであり、そもそもの生命を生んだこの大地にも「母」という存在は重ねられるのである。アミニズムに近いだろうか。八百万の神ならぬ「八百万の母」という存在は、私たちの血や肉、感性までも生成する。水の中に水があるように、それは満ち溢れ時に乾きのときを越えて、脈々と受け継がれていくのだろう。
自分という存在の根源について、改めて思いを巡らせる……、そんな展覧会であった。

PEELER/内藤礼 すべての動物は、世界の内にちょうど水の中に水があるように存在している/神奈川 http://www.peeler.jp/review/1002kanagawa/index.html



インタビューを見るとこの展覧会のあとに豊島のプロジェクトにとりかかったみたい。


内藤さんの作品は1月ぐらいに庭園美術館で見て、自分的にはピンとこなかったし、たぶん単体の展示としても失敗だったんじゃないかと思ったんだけど彼女の作品全体に対する評価、解釈は保留してる。なんか不遜な書き方だなあと自分的にも思うけど。





今回の作品もそうだけど、内藤さんの作品は環境全体の中にすこしだけアレンジを加えて、その環境全体と見る主体との融和のようなものを施しているような印象がある。自分が見てきた限り。

そういうのは李禹煥がいっていた「環境にあまり手を加えない」「テクストとしての作品を主意に恣意するのではなく、すこし手を加える、ズラすことで石や鉄がそもそももっているアウラのようなものを活かし、その上で見るものに開かれた形で提示する」みたいな文脈に属するのかな。そして、そういう文章を読んだいまだとあのとき見た作品に対する感覚も違ったものになっているのかな / 感性だと思ってたところも知識によって変わって行くのかな、とか思う。


ヒモの作品「恩寵」は本来なら鎌倉の美術館で外界の自然的な環境、風や光を感じられるような環境でインスタレーションしたものだったのだろう。そこにちょうどへその緒のようにそれが吊るされ、世界と人との間の約束のように表象される。「おいで」という言葉はそれだけで肯定と許容を含み、ジョンレノンがオノヨーコの作品を見た時のエピソードを思い出させる(その暗室から上を眺めた時に「Yes」とだけ書かれていた)。


まだ内藤さんの作品、文脈に慣れ親しんでないので飛ばし的な期待もはらむのだろうけど。すくなくとも鎌倉 - 豊島の作品の傾向を見た限り、彼女のインスタレーションは李禹煥的なモノ派的な、あるいはミニマルな最小限を軸としつつそこにやわらかい感性、詩性を含んでいるのだろう。


なので彼女の作品はしばらく追っていってみたいし、鎌倉の作品は見てみたかった。

豊島のものは常駐されてるのだろうからそのうち直島ツアー的なときに行く機会もあるかと思うんだけど、

9月に上映される映画でその様子が垣間見られるみたい。


映画『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』公式サイト|2015年劇場公開予定 http://aekanaru-movie.com/



「世界によって見られた夢」は絶版のようでAmazonではひどいこと値上がりしてる。まあ図書館に予約かけてみよう。


きんび鎌倉館は来年で閉館ぽい



近いうちに春の海見に行くからそのときに、内藤さんの作品の様子も見られるならいってもいいかもしれない。



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