枯れるということ /石-鉄-刀

朝にたんぶらでオードリーを見て、椿の枯れるのに重ねる。



先日の雨で桜も椿もどんどん散って道を染めている。

それ自体が趣ではあるのだけど「近隣の人の迷惑」というのもあってか早々に掃き清められてる様をもったいなく見る。明日の朝まだ花びらが残っているか様子を見に行ってみよう。


「年をとるというのは、枯れるというのは単に醜くなるというわけでもなく趣なのだ」みたいなことを思ってそのように彼女たちに言ったとしても彼女たちのじっさいとしては地味に現実的なつらさがあるのかなあとか思う。同時に自分もそのぐらいの齢になると違った感慨を抱くものなのかなあ、とも。


でも、いまの段階だとそういうことを思うときの感覚と石に対する感覚、興味、関心、趣の感じ方と似てるのかなと思う。自分のなかで。わびだのサビだのだということだと思うけど。そして、ワビサビという幻想-コードをもってそういうものを見ているから未だ彼や彼女たちのそれと同じような実際感がないのかなあとかおもったりする。ちょうどフライ・ミー・トゥ・ザ・ムーンの歌い方のちがいのように。


リー・ウーファンの鉄についての、あるいは石についての文章を読みつつ石を採集して石のインスタレーションを自分でつくってみたくなる。生け花にちなむといけ石みたいな感じになるのだろうか。いけるというのとも違うだろうから置き石か。それもまた違うような気もするけど。

とりあえず一度、実際に彼の作品を何度か見てみて、そこからその構成にかけている文法をなんとはなしに吸収できると良い。銀座のギャラリーでちょうど展示してるようなので。それを見に行くまでに「余白の芸術」を読了しておきたい。

石というとつげ義春「無能の人」竹中直人なんかも思うしそういった滋味な漫画をみてぼんやりしたい。なんとなく。足摺水族館とかよいかもしれない。


同じく鉄についての文章を見ていて太郎賞で見た鉄の彫刻をもう一度見たく思った。藤井健仁さんのそれか。

現在日本橋で複数のかたと展示されてるらしい


みうらじろうギャラリー JIRO MIURA GALLERY 2015 03 31 for humans http://jiromiuragallery.com/exhibition/past/20150331ForHumans.html




あとで読み直してみて思ったけど、リー・ウーファンがいっているのは工業製品としての、近代社会の量産/消費のために無名に量産されていく鉄のことだったのだろう。そこにはたしかにアウラはない。

でも、石田尚志もいっていたように、工業品が集うなかで、その無名性がともすると抽象をはらみ、そこにいわゆるゲージツ作品以上の強度が生まれたりする。そういうのはサルガドも写真で捉えていたけど。

そういったものはたぶんハイパーリアル的なもので、リキテンスタインやウォーホルが表したものなのかなとか思ったりする。まあそうするとデュシャンがレディメイドな便器をゲージツとして持ち込んだ流れとも同じくするのかもだし、そのことはリー・ウーファンも触れていた。


自分にとって石や鉄に感じる好意、関心、趣のようなもの、と、刀や刀鍛冶に感じるそれは似ているのかもしれない。

そして、器-土と


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