「春風のスネグラチカ」

冬が始まる - 雪の季節ということもあってか「春風のスネグラチカ」を再読したくなり読んでみた。

それでいろいろ気づいた箇所を日記したくなったんだけど、きちんと書くと長くなるのだろうしきちんと書くほどには中央ヨーロッパ → ロシアの当時の文化に通じてないな、と。とくにキリスト教的な生活の伝統的的な習俗の意味合い。正教圏でのそれ。ドイツロマン主義時代の空気感とか。

ドイツロマン主義時代の空気感といったのはスネグラチカの実質上の前作としての「ブラッドハーレーの馬車」がドイツロマン主義時代の演劇的な空気や意味空間を背景にしていただろうとおもったから。つまりニーチェ-ベンヤミン

ブラッドハーレーは少女加虐な残虐表現のため嫌悪を受けたけど、ニーチェ-ベンヤミン的な「悲劇」を背景に作り上げたものだったように思う。その陰影は赤と黒のビロード。

もちろん、「それを隠れ蓑に加虐的な表現を描きたいだけだった」というのもあるだろうけど。でも、基本的にそういった形でのロマン主義的悲劇だったのだろう。残虐赤毛のアンということでもあるけど。

そして、そういった悲劇の色合いが耽美 - ビザールにつながるところがあって、それになぜか癒やされる人種がいる。癒やされるというかなんとなく落ち着くというか。ベンヤミンなんかも自閉 - ビザール的なところあるようにおもうし。


ベルメールの球体関節人形は、薄っぺらな理知による人体のhack-生権力への反抗的意味合いもあったのだろうけど、それを少女のからだに特に集中して行ったということ。そこには加虐的なロリータ・コンプレックスを想わせるものがあるけれど、おそらくそこに直接的なセックス-生殖や性的暴行の欲望はなく、象徴的にそれを行うことでナニカをカタルシスしていたのではないかと思わせる。

日本美学研究所 『日本人作家による球体関節人形のオリジナリティ』 四谷シモン・吉田良・天野可淡・恋月姫・他 http://bigakukenkyujo.jp/blog-entry-64.html

日本美学研究所 『ハンス・ベルメール(Hans Bellmer)』 球体関節人形のポエジー http://bigakukenkyujo.jp/?no=63


ポルノビデオを見るときに責め手ではなくウケのほうに感情移入、感覚移入してしまうこと。そういう感性は自分だけではないようで。二村ヒトシさんなんかもそんなこと言ってたり、そういう作品作ってたように思う。

そこで象徴的になにが行われているのか?何を求めているのか?みたいなことをおもったりする。

少女 - 人形を通じた破壊というのもそういった形での自己破壊なのかなあとか。


話が逸れたのでブラッドハーレー - スネグラチカに戻ると、スネグラチカにもそういう残虐な場面はあり、主人公が足を切断された経緯なんかがそれだけど、そこはさらっと描かれていてブラッドハーレーほど残らなくしてあった。あと、宿の代としてからだを鬻ぐとかも。もうひとりの主人公の目がえぐられるところもあるので少女だけに加虐というわけでもないし。

それらは悲劇の全体を引き締めるための背景としての陰影で、ドラクロワ的には黒色なのだろう。

そして、そこにドイツやロシアなど中欧 → 東欧の寒気が加わる。


「春風のスネグラチカ」という作品における各種の背景や言葉は沙村広明的なサブカル舞台・背景装置でありそんなに大まじめに論じることもない、というのはあるだろうけど敢えてまじめに捉えると、スネグラチカという話に暗喩、託されたこの作品の登場人物たちの位置づけと人生の道行をどう解釈するか。

すなわち、

「氷の翁と春の精が愛しあい、雪娘が生まれたことで神の怒りを買い村を雪に閉ざされるが、雪娘が溶けてなくなった事により神の怒りも消え再び春がやってくる」

の氷の翁や春の精、雪娘をなんのメタファーと捉えるか、ということ。


ふつーに考えると氷の翁はラスプーチンで春の精はイリーナ、その不貞の子がビエールカ(ナディア)なわけだけど、そこにロシア最後の王朝が掛かってるのかなと。「再び春がやってくる」は集団-圧政化したソ連時代が終わることを、「神の怒り」もそれに関わることを暗示するように思うけどそうすると「氷の翁」「春の精」「雪娘」は何に当たるのだろう?

ロマノフ朝の中心とソ連側(あるいはポスト王政的な近代国家)の中心の結託、密約を連想する、けどロシア-ソ連に疎いので具体的にそういうものがあったのかよくわからないし特に調べない。そのうえでその連想に沿うとここでの「雪娘」は近代国家的なものと王政的なもののロシア-ソ連的混合ということかな。

そして、そういった背景を想わせつつ個人のドラマとして「雪娘が消える」ということの意味合いに再び還る。

悲観的に捉えれば雪娘-ナディアの死を思うのだけれど、ナディアは足を喪ってビエールカとして皇帝に仕える第二の人生を得、最初の死と再生を通り抜けている。

(ちなみにこのときビエールカ(仔リス)は脚を暗示する  cf.「さよなら、、ビエールカ(さよなら、、わたしの脚)」。そしてそれがそのまま少女の通称となる)


雪娘というのは少女の暗い過去であり、それらをそのまま暗い気持ちのままアイデンティファイしていること、自分の出生や運命についてわだかまりをもっていること、そこから人生に対して閉じてしまっていることを想わせる。


「皇太子さまのお役に立てるのは光栄。でも、わたしの脚や人生ってそのためだけに用意されたものなの?(わたしはおとうさんやおかあさんに捨てられたの?)」


なので、出生のわだかまり、自身の運命 - 人生が望まれていたものなのか、愛されて生まれてきたのかどうかが少女にとって決定的に重要となる。


特別な意匠を施したイースターエッグはその証拠として少女の喪った心 - 過去の再生の鍵となる。

また、春の訪れ、断食、節食の季節の終わりの象徴として。


正教におけるパスカ(復活祭)は春の訪れそのもので北国の人にとって特別な意味を持っていたのだろう。なのでブラッドハーレーでもスネグラチカでもキーワードとなってくる。


そして、少女は喪った過去に対面し、その愛を実感し救われていく。


雪娘の凍てついた心は融け、ようやくにして春の訪れを予感させる。


「だって感じるもの春の陽射し、、そこまで来ているのよ、、パスカの祭りが」


少女はパスカを期待しつつ雪娘の再来も期待する。


「春の訪れ、、復活祭(パスカ)の訪れとともに雪娘はこの国を去らなければならないけど、、冬はまた巡ってくるからね」


それは雪娘という過去を単に呪われたものとして捨て去るということではなく、その過去も一緒に自分のものとして抱えて行く意志を想わせる。


そこでは雪女は単なる呪われた魔物ではなく彼女たちが共に歩んでいく同胞なのだ。


クリス・パック/ジェニファー・リー、2013、「アナと雪の女王」: muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/article/407796083.html


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