甘イ果実ト幼イ微熱

昨日は本来なら休みで本業的なプチ遠征に行くつもりだったけど前の日のバイトの残りがあったので朝から行って軽く済ませて本業の方のプチ遠征に行くことに。けっきょくプチ遠征はなしにして帰ったのだけど。


思ったより時間かかって昼ぐらいになった。二子玉川の図書カウンターで本を受け取る予定になってたので高島屋に寄ってついでにちょっと買い物。テラスマーケットの変な八百屋で坊ちゃんかぼちゃも買えたのに気を良くして「こんな時間だし無理することもないから帰るか。買い物済ませて」ということで帰宅。


夕方までのんびりして郵便局ついでに買い物に行ったら路地売りの八百屋がいて安く無花果ほかを買えた。


夕方に食べようかと思ってたけどけっきょく今朝サラダにした



TLほかで欠損女子の話題が目につく







差別、あるいはアイデンティティポリティクスにおけるスティグマとそれへのアイデンティファイ / ディ・アイデンティファイ的な話題としてこういうものはあって、広くいうと弱者論的な話題になると想うのだけどそういう領域で、とりあえずどういう結論になっていたのか忘れてしまった。文化人類学だと中心と周縁の周縁のほうの話題。つまりポスコロとかそういうの。そういう意味で障害者だけではなくLGBTとか貧困とかも含む。


障害やスティグマをもった弱者当人 / 当事者的にはそこでの実際の社会・経済的な回復、生活的向上に関する権利問題、と、そういったスティグマに対して自身がどのように振る舞うのか/アイデンティファイするのか、という内面的な問題の二種類に別れる。なにかの性質を自身の本質としてコミット / アイデンティティとする際の戦略的振る舞いについて



「戦略的本質主義」(


弱者のスティグマを差別の対象としてではなく、それを誇ることによって逆に貧者の薔薇 - アファーマティブアクションとしていくというのはあって、そこで弱者故に社会・経済的権利を獲得しやすい逆差別的な有利・優遇がある反面、それに固執しすぎることによってQOLが狭まることもある。「あなたのはほんとのゲイではない」「ほんとにゲイのことをわかって参加してるのか?」みたいな論争とか。


こういうのの暫定的な結論としてはとりあえず「結果は違うかもだけど機会は平等にしよう」(cf.A.セン)、とか、「本質を中心として狭めるのではなく広げていこう」(cf.牧村朝子)、というものだった。


そして、それらの「正しさ」をめぐって、論理・筋道とはべつのところでの政治的軋轢(誰と誰が仲が良い)から面倒なことが生まれていくのだけど。


「(偽善にせよ形式的にせよ暫定的にせよ)決まった、みんなで決めたルールは守っていこう。そのルールが守られてない時は抗議しよう。そうしないとどんどん汚いもので溢れていってしまう」、とする立場と、「そんなこといってもそもそもそのルール自体が欺瞞で現状にあってないのだ。ルールそのものを作りなおす必要があるのだ」、とする立場がある。


掃除当番における「男子ー、もっとまじめに掃除してよ~」というのと「掃除なんかまじめにやってなにになるんだよー」というのと。


こういうのもどっちがどっちてわけでもなくケースバイケースだろうけど。


「鈴木先生」で有名な武富健治さんの短編集でそういうのがある(「掃除当番」)。



どっちが正しいというわけでもなくケースバイケースで、と同じように、そういった二項対立を超えたところでなんとも結論づけられないような滋味を醸すような事態というのがママあって、人生というのはそういうものかなとおもったりする。簡単にどっちが正しいとか悪いとか仕分けして糾弾できるようなものではなくて。自分も相手も悪に属しつつも善もあり、というような。


こういう問題ではむしろそういうものの考え方に惹かれる。



近藤ようこさんの「五色の舟」というのはそういう話。


原作は近藤さんではなく別にあるようだけど。原爆が落ちる前の広島のフリークスの旅芸人一座を描いたもの。

彼らは差別の対象としてのカラダを見世物にして糊口をしのいでるわけだけどそこに惨めさはない。むしろそれ自体を誇ってるような。その生活に満足しているような。貧しくはあるけど。

そこに原爆が落ちることになって、そのことを件(くだん:人面の牛の化物で世の中に凶事があるときに現れ予測するという)から告げられ別の世界線を選ぶことにする。

最後に別の世界線に飛んだこともはっきりしないまま戦後のアメリカ統治のなかで障害者への配慮が格別になされるようになって彼らはいわゆる健常者的なカラダを得て幸せを得ていく。

原爆が落とされなかった世界で。



そこには障害者であること、弱者であることへの是非はなく、ただそういうものとして描かれている。近藤ようこさんの中世もの、あるいは中世の倫理性というのはそういうものかなあとかおもったりする。あるいはいわゆる「二丁目」的な(cf.花輪和一ほかガロ的な)。



松本大洋「Sunny」の最終巻にこんな場面があった。

園の子に同情的な「家」の子が自分の家で使っていないランドセルを園の子にもっていくのだけど「あんた、何様のつもりなの?なんでウチ、あんたからこんな施しうけんとあかんの?」と突っぱねられる。

そこでこの子ははじめて単純な同情が人の誇りを傷つけることもあるのだと学ぶ。

他の子は「ありがとう。あのコはいま気分が悪かっただけなんよ?」的にフォローしてたけど。


「おもひでぽろぽろ」にもそういう場面があった(「おまえとは握手してやんねーよ」)。





PC的なものにたんじゅんに過敏な人というのはこういうのを省みたことがないのかなあと思ったりしつつ、自分もそういう失敗をしてきたなあとか。


「同情でセックスしちゃいけませんよ」


っていわれたけど。


幼い微熱


なので、そういうのに敏感な人は、そういう場面で敢えて自身の関心に正直になることで倫理の毒を振り払うのだと想う。駅前のボランティアを通り過ぎる時のようなうしろめたさを抱えて。彼らの投げる善の礫から身をかわして。

そして、ふところに忍ばせた「重力と恩寵」に慰みを得るのだ。







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