フロム・ザ・バレル

きょうはわりとのんびり目で過ごした。やったことといったら「フロム・ザ・バレルげっとした」「菜の花詰んで飾った」「観察者の系譜よみはじめた」ぐらいだろうか。あと来週からもそっとちゃんとお仕事するための予定をちろっと組んだり。

道祖神にあいさつにいったんだけどよくみたら地蔵で、まあ氾濫することが多かったようだからなあ昔はとか思ふ。さすがに不敬かと思って撮影はせず。ネコがみょーに集ってるなあとかおもいつつ

川に菜の花つみにいく。

花からの目線

一眼だったらもうちょっと花からの視線ぽく撮れるのだろうかとか。このへんも

河原の先客のネコからの視線を想いつつ、いつも通る橋を人が行き来してるのを見上げる。明日に自分が通ってるのをネコが見ているのを思って。

フロム・ザ・バレルは噂通りうまかった。

そのままいけるのでショットグラスでちょこちょこ呑もうかと想うに、あまりに無骨なつくりでウイスキーグラスしか想定してないようなので溢れる。二杯目はウイスキーグラスにそそぐ。ちょろっと。

ダージリンもうまい。さいきんは酒の後の茶がうまい。

2日ほどまえに冷蔵庫塩漬けから開放して干していた干物を取り込む。良い感じで仕上がったみたい。

干物は単に塩漬けして冷蔵庫保管をしばらくして陰干しでできる。うまくいってたら魚があまったときに重宝しそうなので安い時に魚かっておいて干す → 茶漬けにして食べるのフローができそう。酒の肴はもちろん。

ルミネの動画への批判についてチクリとイヤミを言いつつ

ステュアート・ホール、エンコーディング/ディコーディングモデル。


「刺激」の部分について

もうちょっとはっきりいうとけっきょくは「刺激と反応」ということなのだとおもう。なので「倫理的に考えて」ということでもなく「目についたものが自分のコードの刺激に触れたから反応」ということでそんなに合理的なことでもない。いちおあれを批判する人はあとづけてきにロジックを貼ってるけど、それ以前の倫理性をちゃんと考えればそれは後付にすぎないわけだし。やはり刺激と反応ぽい。


そういうのはすこし前の川崎の少年の殺人に対しての世間の反応←マスコミの騒ぎ方にもおもった。心の闇うんたらとか事件性がうんたらとかいう前に彼らはそういっった流れ全体に含まれた刺激-流れ-印象に支配され流されてるぽい。


ちょうど観察者の系譜読んでたらその辺の記述があったので短く引用すると


ニーチェはこのような環境下での個人の位置を、同化の危機という観点から語っている。


感受性はますます過激になり……てんでんばらばらな印象の過剰はかつてないほど大きくなる。食べ物の、文学の、新聞の、形式の、趣味の、そしてはては風景のコスモポリタニズム。この流入のテンポは「非常に早く(プレスティシモ)」であり、印象はお互いを打ち消し合う。ひとはそもそも何かを「消化する」ためには、いかなるものを摂取することにも――もしくはいかなるものを深く摂取することにも――本能的に抵抗する。消化能力の減退はこのことからして生じているのだ。印象の洪水に対する一種の適応が生じる。すなわち人間は自発的な行為を忘却し、外界からの刺激に単に反応するにすぎない。


社会学に学んだ人もそんな感じなのでこういうのはそういうのにもともと感性があるか、もしくはこういうの専門に学んでないとセンシティブになれないのかなあとか思ふ。



「樽から直送」ー「刺激が直送」ー「フロム・ザ・レベル(フラットな地の底から)」ということで


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