Runtasticでけっこう満足 / 「ぼくを探しに(アッティラ・マルセル)」

そろそろ明日の雪用の防寒の準備をしなきゃなと思いつつ日記。雪かも?という予報は日曜ぐらいから把握してたのだけどどんどんひどい雪になりそうな予報になってきておりちょっと恐々としている。まあひどいこと降ったら降ったで電車でいって昼のは明後日やることにしてパスして帰れば良いのだけど。


きょうは紅葉見物をメインに近場で買い物するぐらいで過ごした。朝のうちに借りてるDVDも消化したし。最後にiPhone用のグッズをうけとるのをちょっと楽しみにしてたのだけどコンビニに行ったときにはまだ届いてなくて(´・ω・`)まあ急を要するものでもないので明日か明後日に


やすみなので早朝にジョギング。ちょっと楽しみにしていたruntasticを試す。

1kmごとに告知してくれたりペースを言ってくれるのは楽だな / ジョギングのお供的に寂しさを埋めてくれるなということで半ばそれだけのためにプロ版を購入。600円ぐらいだし。

使ってみてはじめていままで走ってた距離が6kmではなく7~8kmぐらいだったのだなと気づいた。ペースも6分超とか。5分30ぐらいのつもりだったのに。でも膝への負担を気にして走ってるのにしたらそれなりか。平均としては5分40か50ぐらいのようだし。

まあとりあえず孤独なジョギングでこういうのは思ったより励み / やる気に繋がるので。


帰ってシャワってちょっと朝食して映画の続き。シルヴァン・ショメ監督の「ぼくを探しに」。

邦題だと某有名絵本みたいになってるけど原題は「マルセル・アッティラ」という。「ベルヴィル・ランデブー」の曲の一つからインスピレーションしたのだそうな。

ちなみにショメは「ベルヴィル・ランデブー」とか「イリュージョニスト」の監督。

両方共好きな作品。その監督の実写作品ということだしプロデューサーが「アメリ」の人ということで期待して見た。ちょっと裏切られるのも想定してたけど結果的に良かった。


ストーリーとしては、「幼いときに両親をなくし自閉症気味になり言葉を喋れなくなった青年が変なおばあさんとの出会い自家製催眠療法を受けることを通じて失われた記憶を取り戻していく」、というもの。言葉をなくした原因として「おまえは目の前で両親が死ぬところを見てあまりのショックに」といわれていたのだけど、、。

いつも通りネタバレ上等でそのままいうと、結果的に「両親が目の前で死んだことでショックを受けて」というのはほんとだった。ただし、それが現在自分が弾いているピアノ、ピアニストとして生活の糧としてるピアノが落ちてきて、というのは聞いていなかった。そしてそのピアノが現在世話になっている二人の叔母の住んでいる上の部屋から降ってきたということも。そのショックで青年は指を傷つけピアノを封じる。しかし、その後別の形で人生をやり直す契機を掴んで、というような。


物語全体としては記憶をたどるときに「自分の父親はろくでもない人間だったのでは?」「自分は父親に愛されてなかったのでは?」→「その結果として言葉を失ったのでは?」というのが伏線として提示される。結果的にそれは杞憂で、それに気づけた青年は涙する。「自分は両親に愛されていたんだ」、と。

自分的にはここで少し意外というか考えさせられた。「父親に、あるいは親に愛されていたということがそんなにも大事なものなのか。。(まあそうだよなあ。。」というような。


三角絞めのひとの感想にもあるように自分的にも父親には良い思い出がない。それもあってそういう視点からこの映画に感情移入しても良いものかと思ったのだけど今回はそういうのは特になかった。


とりあえず青年の失われた記憶を中心とした物語パートはここでクライマックスし終わる。「父親はろくでなしではなかった」「父親に愛されていた」「両親に愛されていた」がその答えであるのならばここで感動の涙とともに青年は言葉を取り戻してもよかったのだろうけどここではそれに至らない。


青年が言葉を取り戻すのはそのもっと後となる。


その前段階として、指を、ピアノを失った青年にあらたな人生の契機がプレゼントされる。それは催眠療法を世話していたおばあさんが死んでしまった墓に立てかけられた遺品のウクレレが雨の音で奏でた音楽だった。

その音を聞いて、青年はふたたび音楽をはじめ、それが身について今度はウクレレ奏者として教室をもち生活の糧としていく。こんどは音楽は誰かから強制される義務と責任、ではなく、自分が楽しんでやるものとして寄り添っていく。


青年に子供が生まれ旅に出る。かつて両親がいったのと同じグランドキャニオンへ。赤ん坊の頃のかすかな記憶に残っていたその場所で、かつて赤ん坊だった自分がそうしたように、赤ちゃんが自分に呼びかける。「パパー」と。生まれて初めて発する赤ん坊の言葉。それを聞いて青年も応える。「パーパ(だよー)」と。


この場面、このセリフひとつで青年が自分の人生を選び取っておけるタフさ、自分の人生あるいは自分自身を引き受けたことが示唆される。「子供のためにしっかりしなきゃ」というのもあったかもしれないけどそれだけでもなくいろいろなものが混ざって。


自閉症気味の主人公が慎ましく暮らすその周りにフランス特有の変な人々が飾られて、というモティーフはこれまでの監督のそれに共通するものだったけど自分的にはこの主人公に対する老女の役どころがポイントだったように思えた。

「イリュージョニスト」なんかは半ば聖人の話で、見返りを求めない聖人は最後に自分の幸せも他人に分け与え(すべてを他人に分け与え)という終わり方をしていてそれが切ない感動を誘った。「ベルヴィル・ランデブー」も自閉症気味の青年のその後はわからない。

今回そういった主人公たちの終わりを幸福に飾られたのはハーブのおばあちゃんが居たおかげのように思えた。

ショメ作品ではわけのわからない元気な年寄りというのがよく描かれているけれどそれがここまで直接に主人公の自閉にコミットし流れを変えるというのはなかったように思う。ベルヴィル・ランデブーのおばあちゃん(3つ子の方ではない)なんかはちょっと想うけど、あのおばあちゃんがもうちょっと現実的になって自閉の子の人生になにかを提示していくような。そういう意味での続編に見えた。


まあそうはいってもそれは物語的な部分でショメ作品の魅力はそういったわけのわからない人々、フランスによくいる(らしい)わけのわからない人々を描いてるところにあるのだろうけど。わけのわからない奇妙で我の強い人々。生きることに彼らなりの人生哲学のようなものをもった。かれらが死なずに年を取り、わけのわからないまま人生を謳歌していくパワフルさ。それがショメ作品の隠れた?モティーフのように思える(なのでベルヴィルランデブーの原題は「ベルヴィルの3つ子(のばあさん)」だったわけだし)。


そういった奇妙な人々の絵を描き、そこに物語を載せた、あるいは物語的なものを後から与えつなげたのが本作だったのだろう。

まずは「アッティラ・マルセル」という厳しい名前からなんとなく凶暴な男を連想し、その連想はプロレスなどの場面につづき、、そこにいつもどおりの奇妙なフランス人たちが付されていく。蛇足だけどこの奇妙でキャラの立ったフランス人たちの様子はショメ監督が描いてきたアニメーションの絵で脳内変換されて見ていた。中国人の女の子はサウスパークとかに出てくるような出っ歯メガネのような。おばあさんや老人たちはベルヴィルランデブーなんかに出てくるデフォルメのかかったキャラクターとして。


その意味でこの作品の最後のシーンはそういった老人たちに捧げられる幸福な場面とも言える。映画「コクーン」なんかで描かれていた老人問題が幸福に行き着く場。




映画的にはそんな感じで満足の行くものだった。ので、先日の「この世界の片隅に見れなかったショック」もちょっと癒やされた感じ。

そこからちょっとして紅葉を見に



全体的に、紅葉としてはまだ未熟でもうちょっと待っても良かったかなという感じに。これだったら紅葉よりも黄色に色づいた葉の落ちた様、葉っぱの絨毯とかのほうが良いかもなと思っていたら次に行ったところで大銀杏がありそれなりに満足。

全体が紅く染まるというほどでもなかった紅葉の方は「紅く色づいた葉を愉しむ」というよりは風にハラハラとゆれながら落ちる葉っぱの様子にむしろ風情を感じた。

そういうものは写真だと取り難い。



画像いけばなとしては冬の風の音に耳をすます様子と

紅葉や落葉、映画の影響や冬支度とか








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