そこに彼らがいた

引き続き長谷川郁夫「吉田健一」を読んでる。

読みつつ戦前→戦後当時の銀座の様子を知識として知り情景を思い浮かべる。「銀座、あるいは東京はもともと水の都だった」というもの。東京五輪で公道、高速道路でズタズタにされるまでは。でも「ふたたび銀座に川を流そう」みたいな話もあるみたい。「環状道路ができて首都高の交通量が減る」+「高速の迂回路として銀座に通している車道の交通量も減る」からだとか。あとは五輪のための景観。五輪に合わせてつぶしたものを五輪に合わせてまたつくろうとかなんとか。

まあそういう阿呆らしい話は置いておいて。

水の都、あるいは生活のなかの普段の光景として川が傍にあった銀座を想ったりする。あるいは川でつながれた東京。広島出身なので広島の様子でイメージするとわかりやすいかなとおもうけど。まあ、とはいっても広島もさいきんになってようやく水上タクシー的なものをちょこちょこ試すようになってきた程度ではあるけど。川のそばの料理屋、居酒屋みたいなのはたしかに風情がある。京都の鴨川沿いなんかもそういうのあるみたいだし。江戸ももともとそんなかんじだったようだし。

吉田健一、というか青山二郎-小林秀雄たちを中心とした文士たちが通った「はせがわ」もそんな川沿いの居酒屋だったようで、二階の座敷から川を後ろに飲む酒は情緒があったのだろう。酔いが回って白河夜船、呉越同舟。酒酔い≠船酔いで宛てのない酔い旅へ。


「吉田健一」に著されているのは吉田健一のことというか、そういった銀座を中心とした文士たちのトキワ荘物語であり梁山泊のように想える。あるいは、彼らが暮らし生活していた息遣いのようなもの。それらは彼らの作品からだけではなかなかうかがい知れないものだけれど、批評や小説、あるいは詩の形で礼儀正しく、あるいは格調高く明示化された内容以前に、こういった普段の生活や息遣いが、あるいはその中で交わされる酔息混じった丁々発止の議論や、言葉でははっきりと表さないようなじんわりとした友情や親交、尊敬、畏敬の交流のようなものが当然の前提となっていたのだろう。

それらはまさに「東京の昔」で、長谷川さんも「東京の昔は吉田さんの周りのことをそのまま描いていたようだった」といっていた。


自分が、こういったものに落ち着いたり「嗚呼、いいな」と思うのはそういうところなのかもしれない。

青山二郎や小林秀雄がいたかつての銀座や、岡本太郎が森として馴染んだかつての青山が「ああ、いいな」と思えるのは、単に建物や品物などといったアーキテクチャ的な条件として何かが整っていたからではなく、そこに「彼ら」がいたからなのだろう。


そういうのは「詩は知性として学ぶものではなく詠うものだ」と西欧式の詩、あるいは文学との接し方にも近いのかもしれない。当時の日本ではまだ詩は明治からの西欧的教養のひとつとして暗記しインデックス化していく知性の対象に過ぎなくて、それらが血肉となって混ざり合い複雑にからみ合ってひとつの芸術的な文脈を作り出している(あるいは芸術的な文脈から創りだされている)ということが理解されていなかったらしく、そういった教育を東京帝大で受けてきた中村光夫は吉田健一が西欧で身につけてきたそういった文学 - 詩のありかたに素直に驚き憧れたらしい。

吉田健一は詩を謡い、謡うなかで自然にそれらを覚え諳んじていった。小説も同様に。

それらは普段の会話と作品として結晶化するものとの関係にも近いのかもしれない。


かつての銀座がパリを想わせ、そのパリ-銀座の様子が単に外側だけ張り合わせたキッチュなハリボテではなく風景に溶け込んだものであった(銀座では洋風であることが外国を感じさせるものでなくてこの街で自然だった)のは、そういった人たちの吐いて吸う空気によって街が鈍(セピア)色に染められていたから。。。なのかな





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?