ヴェイユ→人生の意義(美的転回)→表現の自由→ルソー


今村純子「シモーヌ・ヴェイユの詩学」

反応を見ると「正義を攻撃としてつかったとき単なる暴力と化す」なぐらいしか見えてないみたいで一般的な「人は見たい世界を見る」を思ふ。

なので、きちんとエントリする時にはそれ以前の機微をもう少し強調し、ゆっくりと詳細すべきなのだろうな。


自分が今回「わかったように思えた」のは限界情況の極北において、それでもなお世界に対して、あるいは他者に対して希望を持てるのか?ということ。

すなわち留置場や死刑を待つ場、あるいは死病の底、慰安婦の絶望の果て、ガス室前のユダヤ人のような情況。

「夜と霧」のような情況において、「そこで希望を持てた人たちが生き残った」みたいなことが言われそれは一般論としては正しいように思うけどじっさいにそのような情況になった時に自分自身がそれをできるのか?というのは疑問に思うし、そういったところでキレイゴトのように思われて。じっさい、自分が限界に在った時、たとえば留置場にあったときにもそのような気持ちは湧き上がらなかった。将来について考えても暗いことだらけ、嫌なことだらけで。それをやり過ごすためにあまり未来なことを考えないようにしていた。同じ房の人達も。

房のなかではやることがないし、なにかを読むのにも飽きるのですぐ寝転がるのだけど、そうして寝てると余計なことを考えてしまう。そうすると自然に将来についての暗い不安がもたげてきてそれに飲まれていく。それに飲まれて精神を蝕まれないために、「くそっ くそっ」と独り言ちて発散する仲間の様子に自分を重ねる。

ヤミと弱い心が自分を覆う。

それを分かってるので、われわれはできるだけそれに真正面から当たらないように冗談を言い合ってそれらを散らしていた。

今村さんによるとヴェイユは、「労働などによって限界状況に自分を追い込み、それにより自我を陶冶し真空をつくることで他者-世界を受け容れる用意が整い、理知以前に自然と世界に対する感受性が変わっていく」「その理知以前の世界に対する感覚の変化、許容と心地好さをして愛と呼ぶ」、とする。

たとえばそれまでうるさく思っていた子供の声、様子が愛おしく美しく感じられはじめたとき、それまでは単なる貧乏臭い日常だと思っていた風景に慈しみを覚えるようになったとき、そこに「愛がある」といえるのだろう。

それ自体は感覚としてわかる、、のだけれど。

それが「限界状況の真空をしてもたらされる」ということに直ぐに首肯するのに躊躇う。


それはキレイゴトで、少なくとも自分や彼らにはそれはなかった。

ブラック環境で「じっさいに」働く/働き続ける人たちにもそれは同じで、それはキレイゴトで、せめてそこにあるのは同じ境涯にある同胞同志による労り - ユーモアぐらいだろう。


それをして本質的な人間愛(ユーモア)とも言えるだろうけど。


あるいは、そこで現状に流されるだけではなく、立ち止まって自らの位置と行末、あるいはその意味を問い、そこに自分なりの意味/意義を見いだせた時に、世界の見え方は変わったのかもしれない。


そこでなにに意味を見出し、なにをもってその心境に達するかはひとそれぞれで、「太陽が眩しかったから」といって殺人を犯す人もいる。


そういう意味で、この本、あるいはヴェイユ自身にもその部分の説明、「なぜひとは限界状況で愛へと反転できるのか?」(実存転調)についての説明は不十分に思った。


おそらく、それは理知や論理、他人にも客観的に通じる言葉では伝わりにくい人生の行間的なもので、そういったものを埋めるために文学や芸術、映画といったものにおける「余白」的なものがあるのだろう。


その意味で、同書の解説で最も説得力を持っているように感じられたのは映画の解説だった。


はなしが流れたので戻そう。

世界に対する愛の回路はどこまでも固有の物語-価値に依るもので、それがゆえに他者-世間からするとどうでもよい幻想、とるにたらないこだわりであったりする。あるいは小さな狂気だったり。

しかし、それが愛という回路によって他者とつながるよすがであるとき、その一点においてその幻想に世間的価値が有るのだろう。あるいは自分自身にとっても。

理知-独我の極北でわれわれはどうやっても他者の存在、世界の実在を論理的に詰めることができない(cf.ヴィトゲンシュタイン)。そして、その地点に戻る時、人の認知の本来-ゼロを垣間見るとき、世界は本来的に無意味で無価値で、自らの前を通り過ぎて行くフラットな絵のようなものとなる。

その意味で、認知症患者といわれるひとたちのみる風景は本来的にただしいものなのだろう。

そして、そのような構造を基本とするからこそ、人は本来的に通じあえない(cf.ヤコブソン、ルーマン、デリダ)。


しかし、だからこそ、、

そのニヒリズムの極北において、ちっぽけな価値と幻想が、意義を持つのだ。


ルソーがこだわったのは、あるいは表そうとしていたのはそういったものだったのかなとぼんやりと想う。

あるいはバンドデシネやベルヴィル・ランデブーのような、狂気と夢の間のような原色とビザール。


「表現の自由とは多様性を守るということで、自分のクソを認めさせる代わりに他人のクソを認めることだ」とか露悪的に言ったりもするけれど、もうちょっと詰めればこういうことなのかなと想う。

「自由を担保しなければいけないから担保するのだ」ではなく、それが幻想動物としての人を生きる自己の世界との縁、精神的安定につながるからこそ大事なのだ。



まあルソーについてはそういった視角でそのうち読んでいこう。デカルト、カント、ヴァレリー、大拙も。

そのまえに「重力と恩寵」「根を持つこと」だな(もともとこれらと間違えて解説本借りたわけだし)


「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題 / 関口涼子 / 翻訳家、作家 | SYNODOS -シノドス- http://synodos.jp/international/12340

「私はシャルリー」と言えないあなたへ――フランス史上最大の行進に参加して見えたこと|女と結婚した女だけど質問ある?|牧村朝子|cakes(ケイクス) https://cakes.mu/posts/8019?r=20150114m

イスラム教徒として言おう。「言論の自由」原理主義者の偽善にはもう、うんざりだ | Mehdi Hasan  http://www.huffingtonpost.jp/mehdi-hasan/charlie-hebdo_b_6476358.html

「風刺の精神」とは何か?~パリ銃撃事件の考える http://www.labornetjp.org/news/2015/0115kikuti



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