近代における象徴主義の意義をなんとなく理解することでだいたいつながった

「明日が返却日ですよ」とのメール報せが来たのでもう一度ボードレールの「惡の華」をちら見しててようやくこれは日本における「乱れ髪」のようなものだったのだなと思った。それどころではなく近代文学とか近代人の内面のエポック的なものだったのかもだけど。

最初に読んだ時は最初の詩しか読んでなかった+ランボーの「地獄の季節」のほうがインパクト在ったし言葉として現在の自分のフィットするものだったので(゚⊿゚)イラネて感じだったんだけど、いま再度読んでみて曲がりなりにもこう思えたのはこのへんの影響だろうか。

長谷川郁夫「吉田健一」(1) - 日々平安録 http://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/20150102/1420171399

長谷川郁夫「吉田健一」(2)第1章「水の都」と清水徹「ふたつの時間のはざまで」(叢書「文化の現在 7「時間を探求する」1981年所収) - 日々平安録 http://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/20150110/1420820867

長谷川郁夫「吉田健一」(3)第2章「メリ・イングランド」 - 日々平安録 http://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/20150115/1421248546


「吉田健一 集成 7」の月報で池澤夏樹氏がこんなことを書いている。「架空の人物を創造して、彼らにさまざまな体験をさせ、その体験を通じて思想を表現する。これが作者の視点から見た小説の原理である。読者の方は登場人物の運命に共感したりはらはらしたり、とりあえずはプロットの力で先へ先へと進んで、最後には作者の思想を理解するに至る。実に明快な装置だと思うが、吉田健一はその効能を認めない。」 本当にそうなので、小説で思想を表現することどころか、小説というもの自体にいたって冷たかった。わたくしが中学から高校さらには大学の教養学部まで読んでいたのは岩波文庫とか新潮文庫とかに収められたものがほとんどで、その大部分は小説であったのだから、それまでしてきたことは何の意味もないことだったといわれたようなものである(事実、そうであると今では思っているが)ので、なかなか納得できるものではなかった。
しかし、吉田健一が偏愛したラフォルグの「最後の詩」のこんな部分はどうだろうか?
要するに、私は、「貴方を愛してゐます。」と言はうとして、
私自身といふものが私によく解つてゐないことに
気付いたのは悲しいことだった。
・・
それで、蒼い顔をした哀れな、貧相な人間で、
余程暇な時でもなければ私自身といふものが信じられない私は、
丁度、夕方、一番美しい薔薇の花が散るのを
ただ見てゐなければならない棘と同じ具合に、
私は許嫁が自然のなり行きで姿を消すのを
止めることが出来なかった。
あるいは同じラフォルグの「伝説的な道徳劇」の「ハムレット」でのハムレットの独白の一節。
もし本気にさへなれたら。・・・
いくらでも引用できるけれども、こういうものは思想ではないにしても、何かを表していることは確かだと思うので、吉田氏がいっていることはなかなか腑には落ちてこないわけで、今でもまだそうかもしれない。


健一青年がいつ蛹から蝶になったかについては諸説あると思われるが、「東西文学論」の頃だって、西洋かぶれの文学理論をふりまわす「変なひと」とまだ多くのひとに思われていたのではないかと思う。そういう点からいえば、吉田氏が本当に蛹から蝶になったのは「ヨオロツパの世紀末」を書いた時という見方だってあるかもしれない。
雑誌「ユリイカ」が復刊された時、吉田氏に連載してもらうことの了解はとってあるのだがテーマが決まっていない、どんなテーマがいいかと相談された大岡信氏が「ヨーロッパの世紀末」しかないでしょうといったことから、この連載となったらしい(大岡信「荒地を越えて」(「吉田健一集成 別巻))。ここで大岡氏がいっているように、この時に大岡氏の頭にあったのはラフォルグで、「吉田氏の訳したラフォルグの『ハムレット異聞』を旧制高校の時に読んで、言い表しがたい不思議な眩暈を感じた思い出は、私は今までにも両三度書いたことがある。私と同年輩の人々で同じ経験を持っている人が何人かいるのも知っている。飯島耕一、清水徹、阿部良雄氏ら・・・」とあるように吉田氏のイメージを氏の訳したラフォルグとして持っているひとは多いはずで、大岡氏だって「ヨーロッパの世紀末」という連載に期待したのは、ラフォルグなどについてもっと精緻に語ってもらうことであったのではないかと思う。
依頼された吉田氏にしても「後記」に「これは最初はその言葉の連想からビアズレイの絵や象徴派の詩に就て多少詳しく書けば約束が果せる位の積りでゐた。それで art nouveau というものが当時興つたことも頭に浮んでそれを調べたりしたことも今になつて思ひ出す」と書いているように、大岡氏の期待とそれほど変わらないことを考えたのだろうと思う。だが出来上がったものは、どこにもビアズレイの絵や art nouveau などはでてこないものとなった。「併し実際に仕事を始めてそんなことですむものではないことが解つた」のであり、「この本を書くのに予期してゐなかった勉強をすることなつた。」 「そのヨオロツパに、何か解らないことがあつたらそれに就て一冊の本を書くといいといふ格言がある。これは本当であるやうであつてヨオロツパに就て今度これを書いてゐるうちに始めて色々なことを知つた気がする」とあるのは掛け値なしの本当の気持ちを書いているのだろうと思う。巻頭に「先ず廻り道をすることから始める」とあって、本当にヨーロッパの世紀末が語られるのは第10章から先であるから全体の1/4であり、それもビアズレイや art nouveau の世紀末ではない。
この本を書くことで吉田健一のなかで何かが出現してきた。村上龍さんは「五分後の世界」を書いているときに自分でも予期していなかった作品の構造のようなものが現前に出現してきた不思議な経験を述べ、確かに自分が書いたのではあるが、その出現してきた構図が自分に書かせたのでもあるということをいっていた。中島梓もそれに共感し物語作家というのは必ずそういう経験をどこかでするものだということを書いている。吉田健一もまた「ヨオロツパの世紀末」執筆のどこかの時点で似たような経験をしたのではないかと思う。著書の全体像が一気に見えてくるような経験である。そこで、「近代」と「現代」が再発見された。
 大岡氏の論に吉田訳のラフォルグに魅了された若者の一人に清水徹氏の名前があげられていた。その清水氏に、「ふたつの時間のはざまで」という文章がある(叢書「文化の現在」7「時間を探検する」(1981年)に所収)。この論文は「吉田健一頌」におさめられた丹生谷貴史氏の論「奇妙な静けさとざわめきとひしめき」という奇妙なタイトルの文で知った。(この「文化の現在」という叢書ではほかに11の「喜ばしき学問」という巻だけ読んでいる。そこでたまたま村上陽一郎氏の論を読んだのが科学哲学というものを知った最初で、それでその方面をいくつか読むことになりポパーにたどりつくことになった。村上氏自身はファイアアーベントに一番肩入れしていたように思うので、後知恵で考えると、これが同時に広い意味でのポストモダン思想にふれた最初であったのかもしれない。)

「貴族生まれの女ことばで「あいつは使いものにならない」と小林秀雄や青山二郎に断じられた優男だった吉田健一青年を文学者として決意させたものとは?」「そのきっかけ、画期と変化の様相とは?」というのがこの本のポイントぽい。そのひとつとして「ヨオロッパの世紀末」があるみたい。「ヨオロッパの世紀末」を書くことで、逆にそれに鍛えられていった。

「ヨオロッパの世紀末」は現代の歴史学的な知識からするとなんか外れてるところもあって初期の駄作というか、「一人称としてならそういう感じ方もあるかもなあ作家としての」ぐらいのもので書架に置いていたのだけれど、「この本は、もともとヨーロッパ近代、世紀末にとって象徴主義とはどういう意味があったか?を書こうとしたもので、世紀末に連なるヨーロッパの歴史についての説明は回り道的な説明にすぎない」、というのを見てもう一度読みなおしてみたらたしかにそんな感じだった。

ポイントは、吉田健一にとってのボードレール、あるいは吉田健一を通じてヨーロッパ近代(イングランド近代)にとってのボードレールほか象徴主義の意味・位相ということだった。

そこにマラルメもラフォルグもクリムトもムンクも、ホドラー、ルドンといったよくわかんなかった「あのへん」がだいたい含まれていた。


イギリス

アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン(Algernon Charles Swinburne, 1837–1909)
ウォルター・ペイター(Walter Pater, 1839-1894)
オスカー・ワイルド(Oscar Wilde、1854-1900)
ウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats, 1865-1939)
アーサー・シモンズ(Arthur Symons, 1865-1945)

フランス

シャルル・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire, 1821- 1867)『悪の華』(1857年)

オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン(Auguste de Villiers de l'Isle-Adam, 1838-1889)
ステファヌ・マラルメ(Stéphane Mallarmé, 1842-1898)
ポール・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine, 1844-1896年)
ジョリス=カルル・ユイスマンス(Joris-Karl Huysmans, 1848-1907)『さかしま』(1884年)

アルチュール・ランボー(Arthur Rimbaud, 1854-1891)
ポール・ヴァレリー(Paul Valéry, 1871-1945)

ドイツ・オーストリア

シュテファン・ゲオルゲ(Stefan George, 1868-1933)
フーゴ・フォン・ホーフマンスタール(Hugo von Hofmannsthal, 1874-1929)
ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke, 1875-1926)

ベルギー

モーリス・メーテルリンク(Maurice Maeterlinck, 1862-1949)
エミール・ヴェルハーレン(Emile Verhaeren、1855-1916)

ロシア

フョードル・ソログープ(Fyodor Sologub, 1863-1927)
ワレリー・ブリューソフ(Valery Bryusov, 1873-1924)

絵画

フェリシアン・ロップスによるボードレール『漂着物』口絵(1866)

イギリス

「ラファエル前派」も参照
ジョージ・フレデリック・ワッツ(George Frederic Watts, 1817-1904)
ウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt、1827-1910)
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti, 1828-1882)
ジョン・エヴァレット・ミレー(John Everett Millais, 1829-1896)
エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones, 1833-1898)
ウィリアム・モリス(William Morris, 1834-1896)
ジョン・アトキンソン・グリムショー(John Atkinson Grimshaw, 1836-1893)
シメオン・ソロモン(Simeon Solomon, 1840-1905)
ウォルター・クレイン(Walter Crane, 1845-1915)
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse, 1849-1917)
アルフレッド・ギルバート(Alfred Gilbert, 1854-1934)
ジョン・ダンカン(John Duncan, 1866-1945)
チャールズ・レニー・マッキントッシュ(Charles Rennie Mackintosh, 1868-1928)
オーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley, 1872-1898)
フランク・カドガン・クーパー(Frank Cadogan Cooper, 1877-1958)

フランス

ロドルフ・ブレスダン(Rodolphe Bresdin, 1822-1885)
ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(Pierre Puvis de Chavannes, 1824-1898)
ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau, 1826–1898)
アンリ・ファンタン=ラトゥール(Henri Fantin-Latour, 1836-1904)
オディロン・ルドン(Odilon Redon, 1840-1916)
ウジェーヌ・カリエール(Eugène Carrière,1849-1906)
アレクサンドル・セオン(Seon, Alexandre, 1855-1917)
アルフォンス・オスベール(Alphonse Osbert, 1857-1939)
エドモン=フランソワ・アマン=ジャン(Edmond-François Aman-Jean, 1858-1936)
アンリ・マルタン(Henri Jean Guillaume Martin, 1860-1943)
アルマン・ポワン(Armand Point, 1860-1932)
エミール=ルネ・メナール(Émile-René Ménard, 1862-1930)
ルシアン・レヴィ=デュルメール(Lucien Levy-Dhurmer, 1865-1953)
カルロス・シュヴァーベ(Carlos Schwabe, 1866-1926)
ジョルジュ・ド・フール(Georges de Feure, 1868-1943)
エドガー・マクサンス(Edgar Maxence, 1871-1954)
ギュスターヴ=アドルフ・モッサ(Gustav-Adolf Mossa, 1883-1971)

ベルギー

アントワーヌ・ヴィールツ(Antoine Wiertz, 1806-1865)
フェリシアン・ロップス(Félicien Rops, 1833-1898)
グザヴィエ・メルリ(Xavier Mellery, 1845-1921)
レオン・フレデリック(Léon Frédéric, 1856-1940)
フェルナン・クノップフ(Fernand Khnopff, 1858-1921)
ジェームズ・アンソール(James Ensor, 1860-1949)
アンリ・プリヴァ=リヴモン(Henri Privat-Livemont, 1861-1936)
コンスタン・モンタルド(Constant Montald, 1862-1944)
エミール・ファブリ(Émile Fabry, 1865-1966)
ジョルジュ・ミンヌ(George Minne, 1866-1941)
アンリ・ド・グルー(Henry de Groux, 1866-1930)
ジャン・デルヴィル(Jean Delville, 1867-1953)
レオン・スピリアールト(Léon Spilliaert, 1881-1946)

オランダ

ヤン・トーロップ(Jan Toorop, 1858-1928)
ヨハン・トルン・プリッカー(Johan Thorn Prikker,1868-1932)

スイス

フェルディナント・ホドラー(Ferdinand Hodler, 1853-1918)

イタリア

ガエターノ・プレヴィアーティ(Gaetano Previati、1852-1920)
ジョヴァンニ・セガンティーニ(Giovanni Segantini、1858-1899)
ジュセッペ・ペリッツァ・ダ・ヴォルペード(Giuseppe Pellizza da Volpedo,1868-1907)

ドイツ・オーストリア

アルノルト・ベックリン(Arnold Böcklin, 1827-1901)
アンゼルム・フォイエルバッハ(Anselm Feuerbach, 1829-1880)
ハンス・フォン・マレー(Hans von Marées, 1837-1887)
ハンス・トーマ(Hans Thoma, 1839-1924)
フェルディナント・ケラー(Ferdinand Keller, 1842-1922)
カール・ヴィルヘルム・ディーフェンバッハ(Karl Wilhelm Diefenbach, 1851-1913)
マックス・クリンガー(Max Klinger, 1857-1920)
ルートヴィヒ・フォン・ホーフマン(Ludwig von Hofmann, 1861-1945)
グスタフ・クリムト(Gustav Klimt, 1862-1918)
フランツ・フォン・シュトゥック(Franz von Stuck, 1863-1928)
ゼルギウス・フルビイ(Sergius Hruby, 1869-1943)

ロシア

ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン(Vasilij Verescagin,1842-1904)
ヴィクトル・ヴァスネツォフ(Viktor Vasnetsov, 1848-1926)
ミハイル・ヴルーベリ(Mikhail Vrubel, 1856-1910)
ミハイル・ネステロフ(Mikhail Nesterov, 1862-1942)
レオン・バクスト(Leon Bakst, 1866-1924)
コンスタンティン・ソモフ(Konstantin Somov,1869-1939)
ニコライ・リョーリフ(Nicholas Roerich,1874-1947)

その他のヨーロッパ

アルフォンス・ミュシャ(ムハ)(Alfons Mucha, 1860-1939)チェコ→フランス
フランティセック・クプカ(František Kupka, 1871-1957)チェコ→フランス
アルフレート・クビーン(Alfred Kubin 1877年-1959)チェコ→ドイツ
エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch, 1863-1944)ノルウェー
アクセリ・ガッレン=カッレラ(Akseli Gallen-Kallela, 1865-1931)フィンランド
ヒューゴ・シンベリ(Hugo Simberg, 1873-1917)フィンランド
ヤチェク・マルチェフスキ(Jacek Malczewski、1854-1929)ポーランド

アメリカ

エリュー・ヴェッダー(Elihu Vedder, 1836-1923)
フレデリック・ステュアート・チャーチ(Frederick Stuart Church, 1842-1924)
アルバート・ピンカム・ライダー(Albert Pinkham Ryder, 1847-1917)


Car nous voulons la Nuance encore,それというのも我々はニュアンスを望むから、Pas la Couleur, rien que la nuance !色彩ではない、ただニュアンスだけを!Oh ! la nuance seule fianceああ! ただニュアンスだけがLe rêve au rêve et la flûte au cor ! [3]夢と夢を、フルートと角笛を調和させる!



ウィキペディア的説明だと「印象派で表そうとしたもので足りなかった画家たちが単なる写実ではなくさらに自らの内面のリアリティを表そうとはじめたもの」ということで小林秀雄(「近代絵画」)におけるセザンヌによる後期印象派評に合致する。つまり「モネは別として形式・様式として固まってしまった印象派ではもはやそれ自体が単なる意匠・演出にすぎず、ほんとうのリアリティを表現できていない」というようなもの。

そういうことなら象徴主義に分類される「あのへん」の画家たちのわけわからなさが理解できるし、またそういう視角でみればこんどからなんか感じられるように想う。もともとはそういう視角・文脈もなしに素で見てそういうものが感じられたほうがホンモノなのだろうけど。。

ところで、吉田健一はポストモダンというより水墨画的な抽象のように自分としては感じられる。すなわち、象徴主義のあとに抽象主義的なものがリアリティのより誠実な表現として在るなら、水墨画などの簡素なオブジェクトの表現はもともとそういったものに通じていて、画家や生活人のふだんのリアリティの最小限(ミニマル)な輪郭がそれだったのではないかと想う。その辺は水墨画ほか日本画や中国の絵などの見方を見ていかないとわかんないとこもあるかもだけど(美の壺の水墨画特集も借りた)。そうだとしたら吉田健一の飛び飛びの説明、なにかの文脈を感じられるけどかすれた表現としてのそれは水墨画や書画に近いのではないかと想う。当人はそういったものにはほとんど関心はなかったようだけど。でも、娘さんの吉田暁子さんの吉田健一評伝を見ると李白には通じてたみたいだった。


中村光夫との対談「人間と文学」で三島由紀夫がこんなことをいっている。「吉田茂というのは代表的な最後のアングロマニアです。ぼくはグレコマニアで、もっと道徳的なんです。(笑) でも、あのハイカラさというのはひとつの信仰ですね。」 それに対して中村光夫が「それは吉田健一を見ていてもそう思うね」と答えている。三島「信仰です。いいものはすべてイギリスにあるんです。・・典型的なアングロマニアで、シナ趣味で、日本の古典にはまったく興味がない。だいたい日本の上流階級の教養には公家を除いて日本の古典は全然ない。」 吉田健一も日本の古典にはほとんど関心がなかったと思う。どこかで、能が文学であることをドナルド・キーンの本を読んではじめて知ったなどと書いていたくらいである。
ここで三島由紀夫が「上流階級」ということをいっているが、健一氏が上流階級の出自であるといえるか、そもそも日本に上流階級というものがあるかということが問題である。明治の元勲大久保利通といっても明治維新で下級武士から成り上がった人間である。
清水徹氏が吉田健一の略伝で「吉田健一は、かつて日本にあった豊かで教養あり国際的に開かれた上流階級の生まれなのである」と書いているにに対して、長谷川氏は共感と微妙な違和感を表明している。上流階級というのが余計なのではないかというのである。
それで思い出すのが、吉田健一が三島由紀夫の死後、「三島くんはとてもいい子だったけれども、一つだけとんでもない考え違いをしていた。日本に上流階級があると思い込んでいた」といっていたことである。伝説的な?吉田健一の三島邸の悪趣味?への揶揄というのもそこにかかわるのかも知れない。若い頃、何かの映画をみていて併映されていたニュースで、皇太子の学習院入学のことがでていて、そのご学友の父として三島由紀夫がにこにこしている姿が映っていたことがあって、びっくりした。
長谷川氏は、猪木正道氏の「日本は世界の中の一つの国であって、国際社会を離れて生きてゆくことは全くできないということを、明治の前半までに育った日本人は、ごく自然に理解していた。国際感覚を欠く醜い日本人が現れるのは、日露戦争に勝った後のことである」という(いささか司馬遼太郎的な)言葉を紹介している。長谷川氏のいいたいのは、この言は日本の近代文学についても言えるのではないかということのようなのである。吉田健一は「みにくい日本人」の無理解の壁に苦しめられたのだ、と。
おそらく吉田健一のキーワードの一つに「普通の人間」とか「当たり前の人間」「正常な人間」ということがあり、上でいわれているのもそういうことで、要するにその当時の周囲の多くの小説家が(健一氏には)「普通の人間」「当たり前の人間」には見えなかったということである。なぜそうなったのかといえば、「世界的にみたら何が普通か」という視点を健一氏がその生育歴から持てていたから、ということになる。そうすると「普遍的」ということが問題になる。しかし、それは後でくわしく論じることにしたいが、一言、とりあえず言えば、文明の姿はそれぞれの地域で外見的には異なってはいるが、文明が文明であるという点においては普遍的でその根幹には共通のものがあるというようなことだろうか?


岸田秀の評に沿うと三島由紀夫というのは分裂病的なニホンジンをもっとも体現した人物で、それがゆえに空っぽの自分を確認するために創作し、それを通じて反照された仮面の自分を演じきっていた人物であったようなんだけど、その空疎さをなんとなく見破っていたのが吉田健一だった。なので途中ですこし仲違いをしたところもあったようだけど、最後には「三島くんはとてもいい子だったけれども、一つだけとんでもない考え違いをしていた。日本に上流階級があると思い込んでいた」という形で落ち着けてたのはなんか微笑ましかった。三島は三島で象徴主義的演出の極北としてそのうち読もうと思うけど(まあいってみれば「シグルイ」的な変な写実のめり込みを信じこんで「狂」って死んだのが三島だった)。


当時のイギリス保守的なものが政治的にもカロリング・ルネサンス的な骨太を残していたのではないか?ということについてはほかでも書いたので特に掘ってリンクしない。そして、おそらくそれは美学・趣味的な感性的な面にも通じる。


吉田は識ってか知らずかそういった環境に囲まれている内に自然とそれを身につけたのだろう。


なので、吉田健一を理解するということはヨーロッパ近代のその辺りのリアリティ、生活的なリアリティ、国際人的な「当り前」に通じるのではないかと期待している。父茂の立ち位置ももちろん加味されるし、明治初期にまだ残っていた日本の国際人的なリアリティ、すなわち、軍国・平和ボケする以前の勝海舟的なリアリティにも通じるのではないかと(「氷川清話」)。


象徴主義の「あのへん」はたぶん自分の脳内でビザール的、アメリとかベルヴィル・ランデブーとかな「あのへん」を収納・マッピングしていたフォルダ・位相に通じる。

それを「発見」できたことがささやかなエウレカだった。


吉田のイズムはヴァレリーが真髄で、それはヴェイユにも通じる。(すなわち「風立ちぬ」であり宮﨑駿だ)



清水康雄-「ユリイカ」の縁としてはこの辺りの話にも通じるのだろう(ということでそのうち読みたい)



書物の骸は燐光に包まれて — 唐草工房 http://www.karakusakobo.com/blog/2015/1/12



ちなみに「ヨオロッパの世紀末」はユリイカ1号から6号まで連載されていた。つまりあの雑誌は清水による吉田愛、あるいはそれに連なるもの、のひとつだったのだろう。思えば遠くに来たものだけれど(「吉田健一はエッフェル塔のようだ」という解説を想いつつ現代の「パリは燃えているか?」や日本の言論空間を思ふ)。


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