ダンサー・イン・ザ・ダーク

神が力ずくでわたしを奪いとってくれる必要があるのだ。なぜなら、今もし死が、肉のヴェールを剥ぎとって、わたしを神の顔のまんまえにつき出すならば、わたしは逃げだしてしまうだろうから。


「そして死は、わたしの目から光を奪い去り、この目がけがしていた日の光に、澄んだ清らかさをとりもどさせることでしょう……」どうか、わたしは消えて行けますように。今わたしに見られているものが、もはやわたしに見られるものではなくなることによって、完全に美しくなれますように。



TLでダンサー・イン・ザ・ダークみるんだあてのを(´・ω`・)してそういや見てなかったなということで見てみたらよかった。

最近になってBjorkを聞いたのもあって見たのだけれど、逆に見ていなかったのが不思議なくらいのフィット感で、いまの自分にはそういうのが合うんだろうなあと。

Bjorkを聞いていなかった理由、ダンサー・イン・ザ・ダークを見ていなかった理由は共通していて、院生時代の妹みたいなのが「ダンサー・イン・ザ・ダーク見に行ったけどグルグルするシーンで酔って映画館出た。。」ていってたのが印象したから。まあその子はふつーの子なので特に感性的にどうとかでもないんだけど、洋楽に疎いのもあってなんか「スカしやがって(・д・)チッ」枠にあったぽい。自分の中で。


映画の内容としては、一昔前の自分だったらかなり感動うぉぉな感じでいろいろゆってただろうなあとかおもった。グリーンマイルにも通じる「死刑制度反対」+アメリカの腸とアメリカのきれいなところ=現代消費社会のはらわた、的なあれ。


救いが皆無な映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の壮絶な試練 - NAVER まとめ http://matome.naver.jp/odai/2136918302783388001

ラース・フォン・トリアー - Wikipedia http://bit.ly/1BEYasM


NAVERのまとめは一般的反応程度なのでそんなに参考にならず。Wikipediaのトリアーの主題傾向の方が参考になる。すなわち神であり献身と愛と汚れた聖女。

なので本来のトリアーなら主人公は体を売る商売もしていてもおかしくなかっただろうけど、そこを控えたぐらいのものだったのではないかと思う。それが盛り込まれていたら友人である警官との性交と金をめぐるいざこざな場面もあっただろう。(警官が妻に「この女が誘ったんだ」という場面はすこしその断片を想わせる)


目が見えなくなること、「わたしは十分に見たのよ(目が見えてるあなた達よりも)」とそれが閉じてしまうことの恐怖はそのまま死刑とつながっていく。目が見えなくなる恐怖や失望というのはそれだけでもセカイノオワリを想わせるものだろう。死刑ほどではないけれどひとつのセカイに対するゆっくりとした死刑宣告。

そして統合失調症を想わせる現実逃避的妄想。自分の子供の頃をすこし想わせた。自分は結局、統合失調としては発症しなかったけれど、器質的、先天的に統合失調をもっていなくても、ストレスとその逃避としての妄想が常態になっていくと後天的にも統合失調に似た症状となって常態化していくことというのはあるのだろうか。


とまれ、妄想癖というのはミュージカル的場面につなぐためのギミックで、ミュージカルな場面は暗いこの映画の中の救いとなっていた。特に自分はタップダンスな老人な場面が好き。


主題としては「死刑反対」、「夢見がちだけではなくリアルでシビアな現実を見ろ」、「魂の声を聞かせろ」ということでBjorkは実際にたましいの声を具現化する。

ラストの「この歌は最後の歌ではない」は「あなたがたが歌うのをやめなければ(あなたがたが世の中の悲惨と向き合い、声をあげることをやめなければ(それを期待する)」ということであり、観客に投げかけるメッセージなわけだけどNAVERのまとめをみるとそういうことを理解している人たちも案外おおくないのかもなとおもった。

あるいは、そのメッセージは映画のなかではBjorkの子供役の子に託される。



全体の構成は「盲目の羊たちの罪と咎を背負って赴く聖人」であり必然キリスト的興味となって続編する(「アンチクライスト」他もその系譜)。

最後のメッセージに気づかないままだったら観客はまさしく「盲目の羊」であり「羊たちの沈黙」なのだろう。


作品として完璧におさまってしまっている。あざといぐらいに。


あざとさを感じるのはBjorkの悲惨な設定が観客の同情を誘う、観客の良心を人質とし、感動やなんらかのショックをもってそれを開放するというところ。それもさることながらBjorkが悲劇の主人公に酔ってしまってないか?というところ。

子供の将来をかんがえると「自分が犠牲になって子供が手術を受けられる(というのはさぞ気持よいでしょうね」という怒りが出てしまい、それはBjorkの友人役のひとに共通する。


そして、自殺というのはあるロマンをもってないとできないものなのだということを思い出す。

穿った見方をすれば、「ある時期から彼女は自分を聖化して死ぬための準備をしていて、ようやくにしてクソな現実から解き放たれたのだ」、ともいえる。もちろんそれは穿った見方であり、Bjorkの役のひとは生活を楽しんでいただろうけど。

しかし、やはりこういった手法によって良心を人質にされるというのは気分が良いものではない。。(なので同じ主題でも「イリュージョニスト」のほうが好きだし、タップダンスの老人の姿からそれを想った)


主題はそんな感じで自分的にはだいたい識っていることだったので、全体の雰囲気から。ドッグヴィルもそうだけどトリアー監督の作品は茶色、土の色な感じがする。森と土な感じ。なので、そういうものが欲しくなった時に彼の他の作品も見ていこうかなと思った。


あとはCoccoちゃんてそういや日本のビョークかてことでそのうち見ようと思った。




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