「ひかりとノートルダム」 経験 - 実感 - 建築 - 居住・暮らしの感覚

夕飯後の夕寝から覚めてしばらくして「遥かなノートルダム」のつづきを読む。「ひかりとノートルダム」。

この節は初夏の早朝の光に染まったノートルダムの白銀の世界の中からの着想ぽく、全体の主旨としては「ノートルダムをはじめとしたヨーロッパの建築には、日本の教科書で教えられるような『ヨーロッパ』『文明』てかんじの上っ面ではなく、ヨーロッパのそれぞれの人々の生活と経験に基づく歴史 - 伝統の積層がある」というようなもの。ここでの経験というのは自分的には「実感」という言葉で置き換えられるように思った。「そこにはゴール人、ゲルマン人たちがキリスト教を受け入れ、自分たちの生活と歴史として来た積層がある。一口ではいえないような経験の集積としてのそれが」みたいなの。


実感というのはたとえばなにか難しい本、思想とか哲学とかの本を読んでその場だと知識的に理解 → 知性によって腑分け・整理整頓してインデックスしたとしても、それはほんとに自分の腑に落ちた知となっているのか?みたいなの。そういうふうにして若い時に読んだ本でもしばらくして読むとその印象や意味が違って感じられ、腑にストンと落ちる、あるいは、ぢんわりと広がっていく。そこではじめて「自分はこれを理解していなかったのかもなあ」と思えるような。自分的には思想というのはそういうもので若い時に読んでもほんとに理解できるものなのかなあとかおもったりしてる。後代の我々の知識からすると間違ってるようなものでも、その時代の知識の文脈、著者の置かれた環境や思いを汲みとって読むと印象が変わってくる。自分が著者の年齢に近づいても。


本だけではなく、そういうふうにして得られた実感、自分なりの哲学とか感覚のようなものを基軸にしてみていくと世の中のスコープは変わるし、大体のひとは少なからずそういうことをしている。気づかないし特に言語化してないだけで。森有正的には「アーティストの役割はそういうものを明示化することだし、そういうものがない作品はアートとはいえない」とかなんとか。


話をノートルダムの建築に戻すと、「建物にそこで生きた人々の歴史、息遣いが残って、それが記憶となっていく」みたいな話は保坂和志「カンバセイション・ピース」にもあったなあ、とか。あるいは鎌倉の建築群なんかを想ったりもする。保坂のそれは基本的に鎌倉のそれだろうし、鎌倉の古い建物群はそういったもののように思える。寺社仏閣だけではなく民家的なものも。ベタには「柱の傷はおととしの」とか。


森有正のこのエッセイ的には「ヨーロッパにはそういう経験 - 伝統の集積が建築物にみられるけど。。」ということで特に日本には触れてなかったのだけど、日本の建物にもそういうものはあるのだろうか?とおもったときに以上のようなことを思った。つまり、「日本にも当然のようにそういうものはあるだろうけど、それらを味わう目がないためにそれらが見えてこないのかもな」、ということ。そういうわけでしばらく建築本をぐぐる。



とっかかりとしては最初の二冊が良さそう。「そもそも建築とはどういうことか?」という根源的な問いを発してる三冊目も。山口晃の対談ものもおもしろそう。


「そもそも建築とはどういうことか?」関連でいうとブリテン島のヘンジ群の話を想う。「ストーンヘンジに代表されるヘンジ群がああいう配置になってたのは、冬至を祝うための配列ともいえるけど同時に人の知性(理解)の構成を配置(マップ)したものだったのではないか?」みたいなことが「どんぐりと文明」にあったけれどそんなかんじで、最初の建築というのは宗教儀礼と未分化なインスタレーションアートがそのまま居住空間になってたところがあったのではないか?というか、そもそも「建築」「(住居用)建築物」という概念がなかったとき、なにかものを「つくって」そこに住む、生活するというのは考えてみると奇妙なものに想える。たとえばアリの生活をイメージしてみると良いのかもだけど、ニンゲンの生活をアリの生活のように観察する目を想定したとき、そこでコツコツと住む空間を形作ってる生物というのはきみょーにおもえるのではないか?そして、その装飾が必要最低限なとこからどんどん複雑になっていけばいくほど知的段階が上がってるようにおもえるのだろう。


そういうことを想ったとき、「住む」ということ、「住む空間を創る」ということ、「自分に快適になるように住む空間を形作っていくこと」「その中で暮らしていく(住む)こと」というのはなんだかきみょーなことに思えてくる。生活それ自体が小さな呪術のような。居住空間の自分の周囲の環境そのものが自分に日々影響を与えてくるような。

ちなみにマガジン「just one」はそういう観点からやってる。



とりあえず、そんなことをおもったのであらためて建築についてうんちくを仕入れてみるのもよいなとおもって上記の本を。建築とか彫像のような三次元的なアートに疎いので。関連でこの機会に「ヘンナ日本美術」(山口晃)を読んでみるのも良いかも。

そういうのを仕入れてから鎌倉ほかの古い建物に行くとまた感覚が変わってくるのだろうか。あるいは、自分の普段の生活に関する目も変わってくるのかもしれない。住んでるところのみならず近所の神社や、行くと落ち着く明治大正期の邸宅とかも。


「ヨーロッパにはそういう建物は見られるけれど。。」というけど、自分にとっては東京は広島にいたころよりもそういう建物、伝統というか、暮らしていた人たちの文化的積層を感じさせるものが多いように想う。自分が住んでる地域が特にそうなのかもだけど。そういった意味では自分にとっての異国感覚でもあるのだろうし、異国に住んだひとはまた東京や日本に対する感覚、目が変わってくるのかもしれない。あるいは外国にいる内にそういった建物に対する感覚が変わってきて、そのときに「ああ、わたしはここに馴染んだんだな」みたいに思うことも。自分の落ち着く場所に特別な思い、契約のような感覚をもって近辺の歴史をたどるようなことも。














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