吉田健一の時代

吉田健一の娘さんの吉田暁子さんのエッセイを読んで「うつくしい日々(仮)」というタイトルでエントリしたくなった。コレ一冊だけについてでも良いのだけど鈴木鎮一さんとか「ドミトリーともきんす」、できれば人生の意味と美意識、美意識とファシズム的衝動も兼ねて。

エステティークも読んでからにしたかったけれど、あとで読んで後悔しないように少しだけ読んでおいて似たようなテンションと味わいのものを出せるようにしたい。


さいきんはnoteばっかに書いててブログにエントリしなくて「ブログとnoteの違いはなんなの?(すくなくとも自分にとって)」て感じなんだけど、こっちはかなり無責任・てけとーに思ったことを記すということで本来の意味での日記、で、あっちはいちお公開ということでそれなりに納得出来る範囲で調べてまとめる・考える、みたいなの。

というわけでこっちではまたちょっと思ったことをポロッと言っておくのだけれど。


いまさらにして吉田健一のWikipediaを見て、吉田健一について興味関心を持つというのは単に吉田健一というひとりの人物について識るということではなくこの時代、あるいは、戦後日本の文学と批評について識るということなのだなと。


1949年4月、國學院大學非常勤講師となる。1953年秋に福原麟太郎・河上徹太郎・池島信平と戦後初の渡英旅行。1963年4月から1969年3月まで中央大学文学部教授。
師事関係としては、ケンブリッジ時代のG・ロウェス・ディッキンソン、F・L・ルカス、帰国後は河上徹太郎などがある。主な交友関係には石川淳・大岡昇平・小林秀雄・中村光夫・福田恆存・三島由紀夫・横光利一・丸谷才一・篠田一士・ドナルド・キーンらがいる。
ただし三島とは、1960年代前半に仲違いしている。一説によると、三島が新居に移った時、部屋に置いてある家具の値段を吉田が大声で次々と値踏みしたのがきっかけだったともいう。また、ジョン・ネイスン『三島由紀夫-ある評伝』(新潮社)によると、「鉢の木会」の月例会の席上、三島の書き下ろし長編『鏡子の家』を、その面前で「こんなものしか書けないんだったら、会からは出てもらわなくちゃな」と酷評した事も大きいとされる。さらに、三島がモデル小説『宴のあと』に関して有田八郎と揉めた際、有田と旧知の間柄(有田は父・茂の元同僚)だった吉田が、間に入り事態の収拾にあたった事を三島が悪く取ったためとも言われている。
戦後復興の時期に首相だった父・吉田茂の実像を最もよく知る人物であるが、父の思い出を語ることは多くなかった。一説には、母・雪子の死(1941年10月7日。53歳)後に父が長年関係があった新橋の芸者(「こりん」、本名は坂本喜代(のち喜代子と称する))を、事実上の後妻として迎えたことに健一が反発していたからだと言われている。「佐藤栄作日記」によると、父の没(1967年)後は妹麻生和子(父の私設秘書として常に傍らにいた。元首相麻生太郎の母)とは、余り折り合いは良くなかったようである。

なんとなくだけど、戦後日本というのは誰もが精神的私生児で、吉田も小林も三島もそういった意味では私生児だったのだろう。父≠国家の大義を失い、そこから正しさ≠美意識も否定されたので。

文学者たちはそういったところからは距離を置いていた、とはいってもいくらかのダメージはあったのだろうしなにより彼らの父母がそういった美意識や倫理の影響を受けていたら幼年期から発達過程に受ける影響、深層心理的に残るそれは慮れる。

そして、彼らの個別の家庭事情が関わってくる。

吉田が一番お坊ちゃんだけれど、彼は外交官という父を持ったことで現実的には父親不在だったのだろう。六歳まで吉田を育てた牧野のほうが父だったといってもいいのかもしれない。それでも晩年に吉田健一は「父親とようやく和解できた」としそれを「交遊録」の最後にしたためたようだけれど(「最後に交友できた人」として)。

小林については未だよくわかっていないけれど、自分が当初思っていたような敢然とした文学者というわけではなくどちらかというと「持たざる者」だったぽい。江藤淳の小林秀雄解説を読み始めているのだけれど、天才中原中也に比して小林は「持たざる者」だった。だからこそ批評を芸として高める必要があった、と。

なので小林は文語でロックをやっていたのだろう。

小林の文章がたまに「わけわからない」とか感想されるのはそのへんが関連してるのではないか。たぶん、重厚なヤンキーであり叛逆のカリスマなのだろうから。

三島もそういうところがある、というか長渕剛を思わせるわけだが、三島は小林よりももっと「美」に耽溺した感じ。小林は三島よりもそれを批評する立場にいたように思える。

そのあたりが吉田をして三島を叱責させた背景だったのかなとか。


吉田健一を語るとき「ダンディズム」という言葉が用いられるけど自分的にはこの言葉には不足があるように思う。彼は、おそらくブリティッシュジェントルマン、カントリージェントルマンなのだろう。それは白洲次郎にも共通するのだろうけど。ダンディであろうとした、のではなく、結果的にそこに男の美学のように周りから感じられるものがあったというだけで、吉田は彼が「普通」と思われる生活を普通にこなしていただけにすぎない。

それは吉田暁子さんのエッセイを読んでいて感じられる。


ただしく保守であること。


あるいは「保守」という言葉でまとめられる以前に「ふつう」にただしく暮らしていくこと。


それが吉田健一だったのではないか


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