うすれていくかなしみ?と九相図

昼から夕方までの日記のあと作業をしようとしたら夕陽が鮮やかになりそうだったのですこし観に行く。結果的にそんなに鮮やかでもなく夕陽を妨げるビルで見えなくなる程度だったけど。その合間から見える夕陽とそれに映えた雲はちいさな龍雲のように山のほうへ消えていこうとしていた。

そのあと作業。

「外界のことがすべて無意味に見える」みたいなこといいつつ先日の続きの「イップ・マン」を見ながらけっこうおもしろく感じてる自分の俗さを俯瞰する。目がちいさくなっていくねこを後ろに。申し訳無さも感じつつ。


自分がねこを失った時ちょうどイップ・マンを見ていた。佛山時代、イップマンが仲間のクンフー師匠を日本兵たちに惨殺され怒髪天となりはじめて人に最後まで当身し日本の空手兵10人を一度に相手し再起不能にし倒していったところ。詠春拳による十人組手の殺陣の鮮やかさにわきあがるものがあるなあとか思っていたらねこの様態がわるくなっていって…。

そのときの反省は以前したしソレを繰り返すことは必要以上に思えるので留める。


今度もイップマンを見つつ、あるいは作業中におなかが減ったのを感じつつ「(俗だなあ)」とおもった。「(冷たい人間なのかな)」とか。

冷たいというのとも違って時間が経って慣れていってるというのもあるのかもしれない。慣れる、というか、、、あのときから離れていってるというか…。

あのときのことを言葉として思い出せてその言葉を元に断片的な映像の連続として再現はできるけれどそれは言葉化することでカプセル化した記憶の再現であってあのときほどの衝撃はない。あるいはその直後しばらくの、どうしようもなくフラッシュバックされて自責や嗚咽につながっていくような。ナマの映像と記憶、実感ではない。

そのことが、時間の経過がある程度自分をそこから解き放っていってるのだろうか?

どうしようもないかなしみから。



あるいは日記にすることで相対化や俯瞰をし、全体の意味を理解できて安心したというのもあるのかもしれない。安心、というか、自分なりの落とし所を見出していきつつある、というか。すなわち自分なりのもがりということだけど。

そのひとつとして、どうしようもなくあのときのことが思い出されてかなしく思う、というのはあのときの不安とショックを代替しようとする心理過程なのではないか?とすこしおもった。

かなしい、というか、それ以前に、あのときのことがあまりにショックで怖かった、不安だったので、それが何度もフラッシュバックされる。

だったら涙の理由は「かなしい」というか「こわい」が本当で「かなしい」はその世間的な落とし所としてるだけ、なのではないか?不安と恐怖が薄れればそれらは薄れる(れた)?


でも、そうだとしてもそれらも含めて「かなしい」ということなのかもしれないけれど。




仏教の修行ではそれもこころの乱れとして排除しようとする。


でも、大部分の修行者、あるいは仏教者はそれを単に悲しみほかの人間的感情の心理過程を「煩悩」として相対化したり俯瞰しようとするだけで悲しみそのものを受け止めようとしてるのではないように思える。


自分が考えるいわゆる悟り、というか、悟りじゃなくてもいいけど仏教者、仏道の修行の目指すところは、悲しみや喜びといった感情を「煩悩」として排除する / 無視しようとする、のではなく、それらを十全に味わい、よろこびも悲しみも、悦楽も怒りも、すべてを限界以上に味わった上でそれらを自らのうちに統制する術を身につけることのように思う。

とりいえた知識でぶくぶくと膨れ、かなしみや怒りを「くだらない下賤なもの」として無視する、のではなく、それらのつらさを経験した上で透き通っていくような。


単に感情を廃するというだけなら最初からロボットになればよいのだ。そういうことは以前に阿含教のテキストをすこしかじったときにもおもった。



九相図のことを思う。


自分にとっての今回の日記とねことの過程は九相図のようなものなのではないか、と。日記を通じてねこの今後も想像し、それらを俯瞰し相対化して解体することを通じて心理的な納得・平衡を得ている(目の前のねこの変化や状態にうろたえなくなってきている)、のではないか。

あるいは、九相図(観)とはもともとこういったかなしみの限界を超えるための修行だったのではないか。

それを「単なるモノ」として通り過ぎていくのではなく


九相図 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E7%9B%B8%E5%9B%B3

死体の変貌の様子を見て観想することを九相観(九想観)というが、これは修行僧の悟りの妨げとなる煩悩を払い、現世の肉体を不浄なもの・無常なものと知るための修行である。


自分にとってはねこの肉体はまだ不浄なもの、無常な「たんなるモノ」には思えないのだけど…。もうすこしして目のみならず身体も様子が変わりだしたらまたちょっと違ってくるのかもしれない。まあよくわからない。


でも、

そのときにもできれば抱きしめたく思うし、そういった愛情に結びついた関係のものが失われていくを受け止める・乗り越えていく過程が九相観行の本来の姿だったのではないかと思ったりもする。




以前に諏訪敦さんがETVで自身のおばあさんの画を描く過程の特集を見た。


NHKドキュメンタリー - ETV特集 アンコール▽忘れられた人々の肖像~画家・諏訪敦“満州難民”を描く http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/20/2259526/

なくなったおばあさんの無念の真実を表すために、諏訪さんは誠実に、とことんまで取材をし、それを通じて(最初はうつくしい女性の姿だったおばあさんの絵姿を)殺していった。

その過程を諏訪さん自身「つらい」と語っていた。自分が祖母を殺していくようで、と。


それは諏訪さんにおける九相図なのかなあとぼんやりとおもった。

(あるいはそれだけじゃなく以前の諏訪さんの作品にもそういうのは通じるだろうけど)


松井冬子さんの画が九相図に影響を受けていることの意味合いがちょっと理解できなかったけど、それもこういうのに通じるところがあるのかもしれない。




ふと「ずっと外にいればねこが九相を超えていく過程にも付き合えるのだろうなあ(あれは外だからできるのだよなあ)」とかおもう。


そのとき、自分は最後まで愛情をもって抱きしめられるのだろうか。


根性だめしとか意地とかそういうのでもなく


ごく自然に




とりあえず今日はまだねこを抱いて寝よう。


本当にほんとで、これがねことの別れになる、のだろうから

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