戦時の危機感と根をもつこと

TLでシリア虜囚自己責任危機感のどっちが危機感ねーんだボール投げ合いで「日本は米国安保で武器商人扱いされたんだよ?それだとどこでもテロうけてもおかしくないんだ。自己責任言ってる場合じゃねーだろ危機感ねーのか?」みたいなの見つつ、そういう話題はイラク戦争当時というか、2007年ぐらいにもあって広島みたいなとこでも「テロ注意」みたいな看板がふだんの住民街に立てられてなんとも平和感あったなあとか。


「危機感ねーのか?」話で昨日見た「麦の穂をゆらす風」を思い出す。

同映画だと市民の義勇軍ということではあっても警察-軍と戦うのにふだんの住居-拠点が割れてる状態でたたかっていて、すぐに摘発されひどい目に合わされてるのを見て「この人たちは戦争状態という心構えがないのだろうか。。ベトコンみたいに潜らないと」とかおもったんだけど。同時に「こういうこと想うのも自分の悔しさや怒りの感情のすり替えなのだろうな」と俯瞰していた。


「汚いアイルランド野郎め」「アイルランド人はまぬけで怠惰でクズばかりだ」

そのようにして日常のなかでいわれのない差別と虐待、嫌がらせを繰り返され尊厳を踏みにじられていくアイルランド人たちの様子は日常生活が既にして刑務所の中みたいな不自由だったのだろうなあ、と。

そして同じ民族のみならず身内や兄弟が別れて戦い殺しあう羽目に。


その様子のやるせなさになんとももにょーんとした気持ちが残ったのだけれど、そういった怒りの炎みたいなものを心中に残して糧としていくことには慣れているので、それはそれとして処理しつつ寝た。すこし憤ってついったで代償行為的にイスラム国虜囚について平和ボケはつげん繰り返す人たちに嫌味言ったりはしたけど。


ヴェイユ「根をもつこと」をちら見する。


思っていたよりもしっかりした論考のようで、印象としてはバークのそれをなんとなく想わせた。イギリスへの亡命がそれに影響したのだろうか。あるいはフランス革命 → ド・ゴールの解放戦線について書かれているということがそう想わせたのか。


歴史に詳しくない人は疎いだろうけど、現在のフランス、革命以後のフランス(Parisを中心とした近代-戦後フランス感)と違って、フランスはもともとParis盆地を中心としたものでもなく、Parisも有力な豪族的な中心ではあったけど南のバスクやアビニオンあたりの気風のほうが自分的には印象があるところで、つまり現代人が「フランス人は」といってもそれは作られた近代的なフランス感がある。

そのことについてヴェイユも書いてくれているようでなんか溜飲が下がりそう。それは多分に打倒ナチス当時の檄文的な意味合いもあるだろうけど。


そして、上記のようなことをかんがえると先日の「フランス人にとって表現の自由はー」みたいな話も嘘くさく想える。嘘というわけでもなく彼らにとっての再帰的近代なのだろうけど、それはどこまでもフィクショナルな近代と歴史で、、でも、「われわれ」意識というのはそういったものだったりもする。


「土地やパトリを追われた無産労働者たちのさまよえるアイデンティティを救う/救ったのは?」「彼らはその縁として何を求めたか?」


「麦の穂をゆらす風」では「我々は、再び我々が、ふつーの農民や市民が土地を持てるように、われわれの子どもや孫達が土地を持てるように戦うのだ」といっていた。それはアイデンティティであり誇りの問題でもあったのだろう。ヴェイユなら「根をもつこと」(enracinment)といったような。


イスラーム国に集う若者たちにそれがあるかというと、大部分はどうでもよいDQNみたいな連中のようで、そのリアリティも日本の平和ボケな現状認識連中と似たようなもの、というか後者のほうがマシだったりするようだけれど。でも、祖国というか「われわれ」の意識はあるのかもしれない。あるいは、戦っている内にそれが培われていくところも。


そういったものに対して、ネットで己のプライドのためだけに口論する連中はあまりに滑稽で幼いのだろう。

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