とりとめもなく/とりとめなくもなく

画像生け花をしようかと思ったけどそれもなんかめんどくさい/時間かかるなとおもってなんとなく日記することにする。とくにとりとめもないようなそういうこと。

とくにとりとめもないようなことを書くというのはニュース的視点、あるいはなにかキラキラしたものを誇示しあうような視点、テーマがどうとかな視点からするとつまらないことなのだろうけど、そうやって書くこと自体が個人的な愉しみというか、それによって自分が救われてくところがあるんじゃないか、みたいなことは以前にもnoteに書いたように思う(「きょうのできごと」)。


きょうも猫に文句言われてるので寝床をしつらえつつ。湯たんぽの上に置いたらようやく鳴きやんで落ち着くネコ。


「何かのため」みたいな感覚が未来とか過去とかのフィクションの上に、そして社会・経済的な位置・マトリクスから「自分は○○すべき」な感覚があまりに強くなってそっちに乗っ取られていくと、そしてそのときにノルマが達成できなくなっていくと精神病んでくのかなあ、とか。

そう言うのとは別に、「○○のためっていうか単にそれが楽しいので」、みたいなのはあって、そういうのはコンサマトリーなマンゾクみたいにいわれたりする。

日記とか散歩とかもそんなものかなあとかおもったり。特に意味がなくても良くて、意味が無いことが意味があって。


余白とか真空とかそういうの。


少し前にブログのエントリに起こした「死の欲動」の臨床ノートで鍋島焼を見た時のエッセイが印象的だった。

鍋島焼の構図に白い大皿を背景に満開の桜が乱舞しているものがあるようなんだけど、その真中にはなにもない真空の円があって、その円があることで却って全体の桜が生きている印象がある、とか。


それは「余白の芸術」で李禹煥なんかが言ってることなのかなあとか。というよりそういったミニマリズムの考え方自体が侘び寂び的な感性を言語化していったものなのだろうけど。

そこには死があって生がある。死を特に恐れたり誇張したり嘆美するでもなく、単に死があって、それを彩るように生がある。死があるから生が活きるのか、あるいは生があるから死が活きるのかよくわからないけど。



冬が終わる前に冬の名残を愉しみたい/冬の海を見たい、みたいなことをいってるうちに春告魚の季節がきて、あっというまに鱈が店頭から遠退き、あさりが見られるようになった。どちらも季節感のなくなった日本のスーパーでは年中視られるところもあるのだけれど。


もう春なのかなあとか想いつつ木蓮や菜の花を写真に納める。



写真を撮るということに関して、特にうまく撮れなければヒトサマの撮ったもので代用してもよいかなあみたいな感覚が日に日に増してくる。2ちゃんねるほかのネット文化で「特に『自分』を主張しなくて良いや」的な感じで。あるいは、ざいりょうとしてつかう画像はヒトサマのものでもそれらを編集し、構成していくときの感覚は自分のものだし、自分がそこで満足できてればそれでよいのだし、みたいな感じ。

美的にうまく撮る/撮りたい、ものと、情報/記録的に撮るものがあって、前者はだいたいにおいてかなえられないし、それに凝ってそのときの感覚、対象そのものの美しさやおいしさを愉しむことがなおざりになるのならもう撮らなくていいや、的なの(cf.「おとーさんは運動会でビデオをとることばかりに気が行って、おねーちゃんを応援することはなおざりで、おねーちゃんはそれがとてもふまんでした」)。


こういうのは映画館で映画をみても特に没入しないという感覚と同じ根っこなのかもしれない。



「視覚は対象(オブジェクト)を主体(サブジェクト)が完全に客観に受けとるものである」、ではなく、「対象から主体へと像が認識される間に、それを像として認知し視覚化する内部機構(与件)があり、それをもって人は視覚の像を結び、ものを見ることができる」という言説の型は神学における「世界は神が創りたもうた完全なものであり人はその意味を解読していくので十分である」とする第一原理的な考えとそれに対する反論に同じくする。


また、完全客観な視覚像以前に人はそれを認知するための型が要る、ということではアフォーダンスなんかを思い出す。


ホンマさんがいっていた「人は『ここが街の境界』みたいな感覚をなんとなくもっているわけだけど、それを写真にとっていくとどうなるか?」みたいなのは視覚の型とその相対化、あるいはその俯瞰化みたいなことをおもったりする。

ホムンクルス的な脳内地図 ― バカ日本地図みたいなあれ。

慣れてしまえばそれぞれの街のそれぞれの代表的な建物がポイントになっていって、その他の風景はそれに従うオブジェクトになっていくのだろうけど、そういった型ができる以前には人の現在地に対する感覚は浮遊する。



自分が映画なんかに没入できないのはこのキワのところ、認識の型のようなものを見ていってしまうからかなとかおもったりする。錯覚を楽しめないというか。映画は物語として情報的に処理してしまう。

それは理性的な感覚なのかなとも思うけど、感性的な没入ができていない、という点ではコンプレックスのようなものを感じる。

「あの人たちは自分よりももっとあれを没入的に楽しめてるのではないか?」「自分とは違う、自分がまだ感じられてない感覚がそこにはあるのではないか?」

それは絵画における色の感覚にも通じる。ロスコーの絵の魅力がいまいちわからない/なんとなくわかってきたような気がする。

食欲や食に関する感性、セックスにおける感覚もそんなかんじなのかもしれない。


そんなことぼんやり思いながら春を楽しむべく、春の塊を頬張るのだ。




桜の季節もはやいので、その間に日本酒なんかでホロ酔いして桜散歩を楽しもう



目黒川のそれもいいかも(あるいは不忍池とか



それにしても、とりとめもなくてけとーにがんばらないつもりだったのに、どうも自分は頑張って書いてしまうからいけない。。(禅竹でピシっと叩かれる)。

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