「観察者の系譜」をよみはじめた

朝一番でやったことといえば「観察者の系譜」を読み始めたことで、でも正確に言えば寝床をたたみ、湯を沸かすあいだに食器を棚に戻し、ゴミを片付けていた。そして珈琲を淹れて本にとりかかったのか。

「観察者の系譜」は予想通りすこし骨の折れる本だけど読み応え/読む価値は感じる。写真-見る/見られるの感覚の変容-それによる知覚や認識全体の変容などは最初から興味の対象だったのでそれについて語られることに驚きはないのだけれど、ざっとみたところ幻燈機やターナー(蒸気な絵画の)、ゲーテの色彩論、ショーペンハウアーなんかも関わってくるようで興味・関心の収斂、邂逅のようなものをおもう。

「19世紀半ばの決定的な視角とそれにまつわる認識の変容」ということだと「神々のたそがれ」とも関連してくるのかな。

まだよくわかってなくて、各「文化人」の煽り的な褒めそやしと宣伝記事ぐらいから伺う程度なんだけど、トレーラー見た人の感想(自分もそうだけど)で「なんか、ブリューゲルとかヒエロニムス・ボッス思わせる」てのがあって、まあそういうことなんだろなあとおもった。

少し前の日記にもちょっと関連twログしたけど、「神々のたそがれ」の設定とその映像からブリューゲル←ボッスを想うのはそれが「俗」であり「混沌」を表してるからだとおもう。かぐや姫の物語でも出ていた色と俗。

「人間というのはわけのわからない混沌を抱えた生物だなあ」というのをほかの惑星から眺めて相対化という視点。これはオーウェルの「動物農場」を想起させる。というかSFではけっこうある視点なんだけど、計画経済下の生活的実感からそういった理性のオーバードライブを滑稽と相対化する視点、リアリティが特に「動物農場」にリンクする。


まださわりしか読んでないけれど、「観察者の系譜」ではそういった理性のドライブ - マトリクス化された認識-視角の地図とそこに絡め取られることを当然としていく現代人の在り方、すなわち近代の暴力的な認識が出来上がったのが19世紀前半であり、その表象的な足跡としてブリューゲル、フェルメール、ターナーなどが挙げられていく。

カメラ・オブスキュラは観察者として状況を外から眺める視点、客観の視点を当然として内包していて、フェルメールの絵画にはその視点が当然として表れている、みたい。

(中世の認識的には「客観」的なそれは当然ではなかった cf.これが工場労働的な規律・勤労ー都会人的な規律が当然ではなかったこととも絡む)


そういった「客観」―規律の当然が視覚装置としてはカメラ・オブスキュラ→ダゲレオタイプ→幻燈機と変遷していくなかで、どのように読み取れていくか?

代表的な絵画のなかにそれらがどのように見えてくるか?


フェルメールで当然とされた他者ー客観―外から覗く視点はターナーでは霧となって曖昧なものになっていった?ぽい。そしてそれが印象派へとつながり、時代は象徴主義と同期する。


幻燈機のこのような歴史はちょうど早稲田大学でGWウィークぐらいから8月頭まで展示してくれるらしい(無料)。

4月1日から8月2日まで。早稲田大学演劇博物館。無料。10時から17時。七夕の時期、6月にイベント的なものがある。幻燈はプロジェクターの祖のようなもので影絵とダゲレオタイプの中間みたいなの。


それまでにこの本を読み切り、4月1日に「神々のたそがれ」を見に行く予習とし、できればその前までに「動物牧場」も見ときたい。


てか、朝に食べたサンヨーフーズの生パスタおいしかった、の話をするはずだったのになんか、、まあいいか。きょうはこのあとおみやげ的にニッカのフロム・ザ・バレル探しに行ってあったらゲットするのをご褒美とし、軽くサイクリングいこうかとおもふ(その前に来週の予定をさらっと組まねばねば


ニッカ「竹鶴17年」が世界一に 「マッサン」のウイスキーが評価されたポイントは? http://www.huffingtonpost.jp/2015/03/20/nikka-taketsuru-17-years-old_n_6907250.html

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