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エネルギーの漸減と、椅子取りゲームの世界観

何もせずとも、過ぎ去る時間の早いこと。



一昨日から子どもの体調が悪く、病院に連れていったり、妻が食事に気をつかったりしてくれている。実は僕も妻も体調が悪い。


何か明確にコレ、といったことがなくとも、家族が不調に抗っているとき、実は僕らの身体の中でも戦いが繰り広げられているのかもしれないし、単に看病や気働きをするのにエネルギーをいつもより多く使っているのかもしれない。


暮らしのリズムを共にしていることもあって、片方が睡眠不足のときには他方も睡眠不足、ということもある。

そうして交代しながら仮眠をとり、その間子どもを違う部屋で遊ばせたりもするのだけれど、完全に分離できる環境でもなくて。



エネルギーには限りがあるな、と実感する日々。

そんな中でうまくいかないことも多いし、予定していたことや、やりたかったこと、読みたかった本が読めない、ということも多々ある。


「何もしてないなぁ」

ということに、罪悪感を覚えやすくて厄介だ。


「今日何もしてない。何もできないなぁ。」とぼやいていたら、「いいから休みなよ」と妻からの言葉。



そう。休むを、している

むしろ、「何もしてないなぁ」という体感の中で一日がすごい速度で過ぎ去っているというのは、「ちゃんと休めている」ということなのかもしれない。


朝に収録をしたっきり、ご飯を食べた以外に今日は何かの活動をした記憶がほぼほぼ無いのだけれど、もう夕方である。時間が経つのは本当に早い。


「noteくらいは書きたいな」と思って起きてきた今、この文章を書いている。わりと頭はスッキリしている気がする。

何を書くか、というテーマがなんとなく宙ぶらりんのまま書き始めるのはいつものことなのだけれど、今日は特にその感覚が強い気がする。


一昨日書いた映画評のnoteと、昨日書いた本に関するnoteとの反響の落差があまりにも大きくて笑ってしまった。


何がそんなにも読者の反応を分けたのだろう?と思うと、とっつきやすさと共感性にあるのかな、と思い至る。


話題になった映画、関心の高いテーマ、そして、自分ごとにしてもらうための要素。そういったことが噛み合わさった結果、映画評のnoteは「届く物語」になっていたのだろう。


他方で本のnoteは、一般的な本でもないし、僕がその内容を十分に理解しているものでもなければ解説もしていないもので、要するに僕が「理解をしながら書いている途中」のものに、僕のごく個人的で抽象的な状況をあてはめて書いたものだから、「届く物語」になっていなかったのだろう。


そんな風に思う。


こうやって反響の差を感じると、自分の中では並列的に扱っている言葉や概念が、受け手にとっては崖の上下くらいに差があるものなのかもしれないな、と気付く。


ここ最近、一時期のような「動的で活気のある感じ」にちょっと距離ができたように感じる。



6月7月のお祭り騒ぎのようなコーチング熱、新しい方々と関わり始めた動き、たくさんのやりとりが生まれていた日々から一転、今は繋がりの深いごく一部の線だけに絞られてきている感覚がある。


ひととき、綺羅星のように輝いた新しい関係性も、日々に埋没する中で取捨選択がなされ、自分の側から発していたエネルギーも、それに呼応してかえってきていたエネルギーも減衰していく。


学校や職場のように、日々顔を合わせる機会のない関係性は、双方がエネルギーを出し続けることでしか維持されない。



僕らには基本的に、遠心力がはたらいている。

人生は有限で、エネルギーは有限だ。


日々暮らしている中で、より大切なこと、より甚大な出来事、そんな色々な波に翻弄されながら、日々関わる相手や、使う時間や、過ごす居場所の自然淘汰が起こる。


そんな中でも、関わり続けたい、と双方が願いあい、エネルギーを出し合い続けられる関係は、稀有なものなのだろうな、と思う。


大切にしたいものが増え、使えるエネルギーは減っていく。そんな中で、自分の中に残すもの、自分との関わりの縁を紡ぎ続けるものは、選ばれ、減っていくものなのかもしれない。


「選ばれたい」と僕らが望み、「何者か」になろうと必死になるのは、そんな、時間が経つにつれて「残してもらえるための枠」が減っていくことを、なんとなく自覚しているからなのかもしれない。


僕らは一人では生きていけないし、所属していたいという根源的な欲求を持っている。


エネルギーが日々失われていく中で、手放せないものから順に選ばれて行った先に、あなたの席は果たして明日も残っているだろうか?僕の席は明日も残っているだろうか?



発信を続けることの意義は、このあたりにもあるように思う。

今日あった椅子取りゲームの席は、時間が経てば、無くなっているからだ。


座り続けていることはできない。

曲は流れ、次々に参加者が退場し、席はどんどん減っていく。


そんな世界を生きながら、僕らは自分たちの居場所を確保せんがため、必死になってもがき続けるのだろう。




ここまでお読み頂き、ありがとうございました!

どこか「仕方ない」と自分の生を諦めていた僕が、人生を取り戻したのは、自分の願いを知り、これを指針に生きることを選び、行動を重ねてくることができたからだなと実感します。
コーチングを学んだことで、僕の変容は加速しました。

労働観が変わり、人生観が変わり、生きる質感が変わった。その感動を届けたくて、コーチの仕事をしています。

そんな僕の挑戦の原点にある想いを綴ったnoteはこちら。



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