刀剣乱舞は初音ミクに成り得るか~双騎出陣(ミュージカル刀剣乱舞)を観劇して

2019年7月14日(日) ライブビューイングで『ミュージカル刀剣乱舞 双騎出陣~SOGA~』を鑑賞した。
訓練されたTLにはネタバレは流れてこない。だが、「双騎出陣はどうしてこんなことになったのか」という嘆きだけはチラチラ耳に入っていた。
ライビュ会場で「いつになったら源氏として名乗りをあげるのか」が「まさか最後までこれでいくのか?」になり、クライマックス前には「なるほど、これは賛否両論になるわけだ」と思いながら、私の頭の中にあったのは『初音ミク』のヒットの軌跡についてだった。

本題の前に簡単な自己紹介をすると、刀剣乱舞は2015年5月に始めた4年目審神者である。ミュージカル刀剣乱舞は「阿津賀志山異聞 本公演」の時から。友人に誘われて初めて2.5次元舞台に触れた。
初音ミクと初めて出会ったのは2007年の発売前特集のいずれかであったと記憶している。ずっと聴き専ではあるが、約12年間ボカロシーンを追い続けている。
なお舞台ボカロ両方とも、関係者インタビューやツイッター等は一切追っておらず、基本的に発表されたものが私にとっての全てであることをご承知おきいただきたい。

さて本題だが、双騎出陣を観劇した後、私の中に残った疑問はこれである。
「なぜ「刀剣乱舞」で曽我物語を演じる必要があったのか?」
先にネタバラシすると、「なぜ刀剣乱舞である必要があったか?」についての答えは最後まで出てこない。
ただ「2.5の枠組みの中で新しい表現方法を試すには、『刀剣乱舞』というゲームとファン層(プレイヤー層)の特殊性が必要だった=刀剣乱舞にしかできなかった」という結論である。
この「『刀剣乱舞』というゲームとファン層(プレイヤー層)の特殊性」こそが「初音ミクの軌跡」と被るのである。

◎「初音ミク」というキャラクターについて
初音ミクの詳細をご存知ない方も多いと思う。
公式プロフィールは以下の通り。(クリプトン公式ページ
「誕生日:8月31日 年齢:16歳 身長:158cm 体重:42kg」
以上である。
※音域等はその後どんどん展開されているので割愛。
「話し方」も「好きな食べ物」も「生い立ち」も一切の設定が無い。
逆に、初音ミクと聞いて思い浮かべるもの、といえばあの緑ツインテの特徴的な外見である。また声も特殊な音域なのか(?)、調声を重ねても初音ミク以外の声音にはならずデュエット等でも埋没しない。
このように、「外見情報」「声情報」に個性がありながら「性格が無い」のが初音ミクであり、これこそが爆発的にヒットした一因であると考えている。

すなわち、
「初音ミクには性格が無いので、キャッチーなキャラクター性だけいいとこどりしながら作詞作曲者のメッセージを伝えられる。聴く方もキャラクターの性格というフィルターに邪魔されず、素直に受け取れる」
「髪型を変えても自分なりに性格を付けても『初音ミクの作品』と主張すれば初音ミクの作品になる。逆に、初音ミクをツールとして使用したのでボカロ作品ではないとしても「初音ミクをないがしろにしている!」とはならない。初音ミクファンは公式とは違うが、数多ある派生のひとつとして認識し、受け入れる
この提供側・需要側双方の寛容さによって、「メルト」が生まれ「カゲロウデイズ(リンクは『人造エネミー』)」が生まれ「超歌舞伎」が生まれた。

「数多ある派生のひとつとして認識し、受け入れる」
どこかで聞いたことのある言い回しではないだろうか。

◎「刀剣乱舞」について
刀剣乱舞は初音ミクと違い、原作ゲームである程度キャラ設定がされている。現代まで名刀として名前が残る刀は、由緒・来歴・様々な逸話を持っているからだ。
少し乱暴な言い方をすると「それだけ」なのである。
逸話といっても、書籍に一行書かれているだけ等、裏付けに欠けるものが散見される。そういったエピソードをキャラの性格設定に盛り込むわりには「刀剣乱舞というゲームなりの公式解釈」がほぼ提示されていない。
提示されないことの善し悪しは置いておくとして、結果的に何が起きたかというと、「とある本丸のとある刀剣男士による物語」という名の二次創作が花開いた。
公式解釈が無いので比較するべき基準がない。すべての二次創作は「数多ある派生のひとつ」で「どんな解釈をしても間違いではない」。その結果「公式のメディアミックスを含めてどのような本丸を提示されても『とある本丸の話』として認識する」という土台ができあがったのである。

◎双騎出陣から受け取ったメッセージ
では双騎出陣はなにがしたかったのか。
私は「2.5次元という、ある程度事前の理解を求められる演出形態を残したまま、舞台芸術への昇華を試みた」のだと受け取った。
髭切・膝丸の形だけを借りたと見せながら、源氏と箱根権現という接点から古典である曽我物語と刀剣乱舞の世界を繋げ、古典芸能と2.5が融合した「新しい舞台の形」を作り上げ、2.5は『演劇』に足る新しい表現方法であると示したかったのだと捉えた。

初音ミクは「可愛いキャラ付けの女の子に歌わせる」というキャラクターありきの概念を打ち破った。
双騎出陣は、アイドル性に注目されがちな2.5の概念を打ち破り、2.5を演劇のひとつの表現方法としたかったのではないか。

◎刀剣乱舞でやる必要があった?
さて、冒頭でも書いたように「刀剣乱舞でやる必要があったか?」はいまだ疑問は残る。しかしこれは刀剣乱舞にしかできなかった表現方法なのだ。

ひとつ目の理由は、上にあげた「キャラクター設定はしっかりしているが、それについて公式解釈が無い」こと。
そのため今回であれば、源氏に縁のある内容をベースとしたシナリオで、キャラクター性が大幅に乖離しない演出であれば「公式と違う」ことは無い。あったかもしれない分岐のひとつとなる。

ふたつ目はこれも上にあげた、「観客側に受け入れる土台がある」こと。ここでいう「受け入れる」とは、投げられた玉を"受け取る人""自分なりにデコレーションする人""叩き落とす人"と、多様性にとんだ反応が期待できるという意味である。
原作がしっかりした作品でこの変化球を打つと"叩き落とす人"の割合が多くなり興行は失敗となる。
今回はどうだろうか。受け入れられない人も観測範囲内でそこそこいるものの、好意的に解釈した人の割合も少なくない。変化球にとって「賛否両論」とは、最大に期待する結果であったと思う。

みっつ目は、ミュージカル刀剣乱舞が興行的に安定していること
快進撃は示すまでもないので割愛するが、波にのっている今だからこそ挑戦することが出来たし、ゴーサインが出たのである。

余談且つ個人的なことだが、私は加州単騎にはチケ戦に参加しなかった。なぜならライブをやることがわかっていたし、2回目だったから。
単純に予定があわなかったこともあるが、「刀剣男士がライブをする」という演出に飽きた部分も否定できない。
今回の双騎も、つはものの舞台は見事だったし、2人であれば違ったライブになるかもしれない、という淡い期待だけを抱いてライビュ会場に入った。
だから度肝を抜かれた。
普通にライブすれば何の苦労もなく興行できるのに。なんでこんな挑戦をするのか。刀剣乱舞をどう思っているんだろう、刀ミュをどうしたいんだろう。上映中ずっとその疑問が頭を巡り、舞台に釘付けになった。

最後の理由は、秋に新作の「葵咲本紀」が控えていること。まだ詳細はわからないものの、双騎よりは原作に沿った作品だと考えられる。
もし新作が無ければ、「もしかして今後刀ミュは双騎の方向性で行くんじゃないか」と不安ばかりが募っていたことと思う。「葵咲本紀」が本筋として存在するおかげで、双騎の異質さを「外伝」として受け入れることができた。


◎刀剣乱舞は初音ミクに成り得るか
本当は、刀剣乱舞が初音ミクになってはいけない。それは「詳細なストーリーが展開されない」と同義なので初音ミクになっちゃ困るのである。

一方で、ストーリーの無さが豊かな創作の土壌になったことは間違いなく、「たくさんのとある本丸」を愛する者としては悩ましい問題である。

また、ただ歌を歌わせる音声セットという存在を超えた初音ミクのように、ミュージカル刀剣乱舞が「2.5はオタクコンテンツという存在だけではなく『舞台芸術』である」という概念を確立することができるかは未知数である。

安定からわざと外れて新しいことに挑戦する刀ミュの姿勢は、現状を良しとしない渇望に溢れており、また今後の展開が楽しみになった。
これからも長く刀ミュというコンテンツを支えていきたいと思いを新たにした。


長文を読んでいただきありがとうございました。

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