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ハローグッバイについて

良いことも悪いこともあるし、良いことも悪いこともどっちもそれなりに疲れるけど、そういうもんだよな、と思う。
久々にしてしょうもない自分語り。


この2年弱で、生活がガラッと変わった。
そしたら、人間関係もガラッと変わった。

主に夫を通して、たくさんの新しい人達と出会った。
周りにいる人がその人の姿、とか言うようなことを聞いたことがあるけど、果たして夫の周りにはいい気を纏っているというか、みんな年齢も職業も生活環境も結構違うのに、すんなり私の存在も受け入れてくれる人ばかりで、ありがたい。私ずっとここで生きてきたっけ?と思うくらい人の輪にもすんなり馴染めた。
自分の力で得た新しい出会いもたくさんある。主に物書きを志す人たちとの繋がりだ。
そしてお互いがお互いの配偶者を紹介するくらいの間柄の人達とは変わらず繋がれたり、思わぬ旧交を温める機会もあって。
だから、基本的には、温かい人間関係に恵まれて安全に暮らしていると思う。みんなのことが、好きだ。
少々社会が辛くて苦しいな、と思っても、踏ん張る動機になるだけの人との繋がりに家庭の中と外両方で恵まれてるのは本当に心強いことだ。
お金でない縁で繋がってる人が多くいるというのは、なによりの社会保障だなとつくづく思う次第。


ところが一方で離れていった人も実は結構、いる。
離れていった人から感じるひんやりとした拒絶の感というのは、離れていっただけに実害がないけど、それなりにチクリとするものがある。思えば男女間の繋がりではそういう風にして一区切り一区切りしながら生きてきたわけだけど(もちろんこれにも慣れることは一生無いだろうし、もう経験したくないね)友達というカテゴリーにはそういうのは普通はないことだから、あんまりこの手のチクリ、には、耐性がない。
こう言う時は、波風立てず、お察しして沈黙を貫くのが正解。こちらが大人しくさえしていれば、だれもそれ以上のことを要求してくるわけではないから。

ただね、このひんやりを経験して、人の「あ、変わっちまったな」は主観でしかないなと思った。

ほら、映画とかだと主人公がこういうシーンに出くわすことがあるでしょ。どうしても離れていく方が悪いほうに変わって行った、主人公を見捨てた、あるいは主人公が良い方に変わったから、みたいな二項対立を連想するけど、現実における「離れてく」は、私側の感じ方の問題に過ぎないと。相手からしたら、変わったのは私だ。

多分私が無神経で傲慢になったんだと思う。
生き方を変えたのは事実だし、心当たりもある。前ほど相手の期待を読み取ってない。要するに自己中になったってことだ。見る角度によっては、冷たくなったようにも見えるだろう。

自分がこの先この豆腐メンタルで寿命まで生き延びることを現実的に考えたら(寿命まで生き延びる方策を考えられるようになったことは素晴らしい進歩だ)これまでと同水準の責任感と完璧主義は捨てないとダメだ、と悟って手放した。そして与えられているものは有り難く受け取ることにした。

ということは、責任感と完璧主義で連帯した人たちからしたら手のひら返して楽し始めて、親にも夫にも甘えて、全然自立してなくて、それでヘラヘラしてる私には腹も立つと思う。

もっと言えば、自分から人と距離を置いたことだってあったはずだ。ほら、無神経で傲慢。その辺はよく思い出せないもん。何か嫌な気持ちになるから離れるはずなんだけどね。離れていく人がいるということは、それを人に体験させているということなんだけどね。

だけど、とどめの自己中、だけど多分真実、それでも繋がる人とはまたどこかで繋がるんだろう。これっきりになるなら、善し悪し優劣の問題ではなくて、線路が分岐したように価値観が変わっていったってことだ。

私は大丈夫です。

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