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小説「真・人間失格」(♯35)

40.2017年(5) 〜自ら選んだ離別〜

 夏は展示会のシーズンではないために、1ヶ月半ほど彩嘉とは会わなかった。寂しさと不安は募ったが、僕は彼女を信じた。と言えば嘘になってしまうが、一ヶ月半ほど会わなくても、お互いの気持ちは離れないと自然に思っていた。

 夏の間、僕の本業は忙しさが徐々に増していった。僕は以前のように連日、アルバイトに参加できなくなり、出席は飛び飛びになっていった。

 この調子でいけば、秋くらいには完全にアルバイトに出席できなくなる。後ろ向きに始め、同僚達を心の底から見下していたはずのこの派遣アルバイトを、いつしか僕は「辞めたくない」と思うようになっていた。彩嘉との瞳のスキンシップをこれからも続けていきたい。本業が充実する喜び、僕は、フリーターから自営業者へと社会的にも格が上がり、信用も取り戻せる。展示会の会場で見かけ、それまで軽んじられ、侮蔑されていた、出展者や来場者の会社員、運営会社の社員たちと同じかそれ以上の立場にまた戻れる。煩わしい事務所関係も今は存在しないので、周りの作家やスタッフ達の目を気にする必要もなく、業界内を自由に、放送作家・リサーチャーとして歩いていくことができる。

 下層社会からの脱出は、その沼に入り込んだ時に僕が抱いた夢であったはずだ。そして僕は今、それを達成する予感がある。それなのに、彩嘉の瞳への惜しさと、いる間に彼女との関係を成立させたかった僕は、本業が充実して欲しくなかった。

 しかし、予感はやはり的中し、その年の9月に僕は、リサーチ修業をしていた会社から独立した時に登録した、映像製作クリエイターマネジメントからレギュラーの、ウェブ映像メディアの構成作家としての仕事を発注された。

 引き受けないわけにはいかなかった。名残惜しさはあったとしても、このままアルバイトを続ければ、永劫にこの底辺から抜け出せなくなってしまう。それに、ずっとリサーチ業務メインで仕事をこなしてきた僕にとって、構成作家としての仕事依頼は、僕の作家としてのキャリアを一段上げる上で、魅力的な案件だった。

 きた案件はウェブ映像メディアのSNS用企画ショートムービーの構成台本執筆だった。

1本台本を書き上げれば報酬は3000円。映像尺も1分から2分程度なので、最長でも1時間もあれば台本など書けてしまう。割の良い仕事だった。僕は、オファーを受諾し、早速、渋谷の、その会社が借りているオフィスに出向き、顔合わせと打ち合わせをする運びになった。受諾した途端に全てが、僕の理解速度を超えて進行した。

 久しぶりに作家として渋谷という、3年前までナンパ師としてよく通っていた街を訪れた。渋谷に偏見があったわけではないが、ナンパを辞めてから、どこか踏み入れてはいけない場所のような気もして、あの頃のように貞操観念の低い女性と出会うと、渋谷の負の側面に取り込まれてしまいそうで、恐れ、服を買いに行ったり、表参道の、通っている美容室に行く時以外は近づかなかった。僕は33歳になっていたので、年齢からも渋谷はだんだんと僕に合う街ではなくなっていた。

 いてはいけない場所に自分はいる、そんな風に、自分の犯した3〜4年前の、10代の若い女性達を次々と手にかけた罪を悔やみながら、打ち合わせに参加した。

 上の空で、クライアントの言うことにただ記号のように「はい」という返事を、相槌とともに僕は、返していた。2年間まともに業務から離れているうちに、ネット媒体という事情もあってか、クライアントの会社の社員や、ともに働く派遣ディレクターの年齢層は僕よりほとんどが若かった。20代も大勢いた。2年離れただけでここまで遅れをとり、人員の新陳代謝も進んでしまったことに僕は驚き、焦りも抱いた。夏頃から徐々に仕事が増えていたとはいえ、2年の本格的なブランクはまた、業務の勘どころを押さえる点で僕を苦労させた。いつの間にか僕は、嫌悪していた派遣展示会アルバイトとしての装いを身につけていたようだ。僕からは、それまで持っていたクリエイティビティーが消え失せていて、業務を始めた頃は、周囲のクリエイティビティーに驚かされるばかりだった。久々の、しかもなかなか経験のない構成の仕事について行くのは精神を使った。

 お試し期間のため1ヶ月で4本ほどしか台本を書く機会はなかったので、アルバイトには引き続き行くことができた。しかし、一層参加回数は減っていた。彼女も如実に、僕の出勤日が減っている状態を知っていたはずだ。

 10月、僕と彩嘉はこれまでで一番、互いの胸襟を開いた。もちろん、会話は交わしていない。僕は、なかなかアルバイトに参加できなくなったため、彩嘉に別の男性ができていないか不安に怯えていた。10月に入ったある展示会は、3日間参加することができた。僕は、集合した時に、点呼をとっていた彼女の右手薬指に指輪がはめられているように見えた。

 僕は彼女を凝視し、勤務開始から、指輪がはめられているかどうかを確かめた。すると自然、彼女も僕の視線に気づき、お昼休憩でともに控え室にいた時、友人たちと喋りながら、身体を僕の方に向けてまで見つめ返してきてくれた。僕の視線の正体は猜疑心なのだが、彼女がこちらを向いたことで僕はやっと、その指に指輪がはめられていない事実を確かめた。

 そして、午後の時間帯。僕と彼女は、愛を、挨拶という形で確かめ合った。入場者の首から下げたパスをチェックするために、僕が会場へと続く出入り口の前のドアに立っていた時、彩嘉は通りがかった。僕たちは見つめあい、そして僕はいつのまにか彼女に向かって首を傾け、会釈をしていた。すると、彼女は僕がその会釈を終えるか終えないかのうちに、会釈を返してきた。彼女の会釈は反射なのか本能なのか、僕の行為に対して思考する時間もないほどの速さで返したその会釈は、二人の強い連帯を表していた。

 残り二日も、僕たちは同じ場所で同じように会釈を交わしあった。このような瞬間や、彼女が僕を見つめているのがわかる時、視線が合った時、その一瞬一瞬は、セックス以上の快感と愛に包まれ、淫靡ながらも美しく温かった。二人はさらなる次のステージへと足並みを揃えて、牛歩ながら進んでいく。少なくとも彩嘉はそう思っていたかもしれない。

 11月、僕は作家として受けたクライアントから、購入したばかりのオフィスまで呼び出された。社として新たに受けたプロジェクトで大量に台本が必要となるため、僕にそれを担当してほしいという依頼だった。受ければ、アルバイトには一切行く時間がなくなる。より正確に言えば、大量に台本を書く分収入が増えるので、行く必要がなくなるのだ。断ることは、この社との取引自体がなくなることを意味する。拒否するわけにはいかなかった。

 予感は的中し、僕は晴れて構成作家として再び本業に専念できるようになった。11月から僕は、小中学生向けの学習補助アプリで配信する、ショートムービーの台本製作を始めた。1週間に6本は台本を完成させなければならない。1〜分の台本をただ書くだけなら一日でできそうだが、ディレクターとクライアントの二重チェックを受けて台本を修正し、映像編集を開始させられるところまで持っていかねばならない。書くより直しの方が大変で、逐一遠隔でディレクターとやりとりしなければならないため、1週間で6本はなかなかのノルマだ。ノルマに対応するためには、拘束されてしまう展示会のアルバイトにはもう参加できない。僕は、11月2週目の土曜日に、教育アプリの発注が来る前から入れていた、東京ビッグサイトで開催された漫画の同人誌即売会の業務に参加し、ホール前の入場列整理を行い、この業務が結果的に最後の派遣アルバイト参加となった。その最後の業務に、彩嘉の姿は無かった。もしあの日、彩嘉が来てくれていたら僕はどうしていただろう。いや、僕は何もしなかっただろう。今日が最後になりそうであることも、きっと彼女に伝えず、現実がそうであったように、そっと、現場からいなくなっていたはずだ。

 永遠の離別か、一時的な離別か。本業に戻ったばかりの僕には、さすがに先の見通しがつかなかった。アルバイトの籍は残しておき、久々となる構成作家業に立ち向かっていった。

ただ、構成作家案件だけではなく、リサーチ案件も増えていき、自分から仕事をふいにしなければ、アルバイトはこのまま離籍するだろうと予測がついた。

 若いと雖も、周りは僕よりも経験値が豊かなディレクターや構成作家ばかりだ。ブランクもある僕は、日々ディレクターから書いた台本についてダメ出しを受け、憔悴した。週に1回、水曜日に全体ミーティングがあり、作家やディレクターが集められたのだが、僕は毎回、ディレクター陣からの集中砲火の的になった。

 年末までに幾度も僕は、「もう仕事を降りたい」と、クライアントにメールをしようとした。しかし、メールを入れてしまえばまたフリーターに身を落としてしまう。僕は、すんでのところで堪え、ひどいダメ出しを受けたら、それを背負いこまないようにして、ただ自分の中の感情の浮き沈みが収まるのを待った。毎夜ベッドの中で、本業の不安を苛ませ

辞めさせようとする、迷妄を生み出す原因は、彩嘉と会えていないことにあった。

 彼女からすれば、僕は急にアルバイト先から姿を消した、自分を裏切った男に他ならない。そういう評価を下されていたとしても仕方がない。しかし僕は、彼女を裏切ってはいない。愛している。愛しているからこそ、フリーターであった時期、食うや食えずの生活をしている今、男として半人前な状態では、彼女を、胸を張って引っ張っていく自信がない、そんなことはできないと考えてしまうのだ。だから本業が嫌でも、フリーターには戻れない。しかし、会いたい。彩嘉のあの瞳、適度に恋愛の現実を知った濁りがより魅力を、儚さを一層引き立てているあの艶やかで大きな、僕を温めてくれるあの瞳に、捉えられたい。

 2017年の年末と2018年始の休日、本業の恐怖から一時的に解放された僕は、それまで意図的に考えようとしていなかった彩嘉への、強がれない想いがとめどなく、抑えられないほどに溢れてきた。この想いに決着をつけるために。僕は再び、彩嘉に手紙を書き、渡しに行くと決めたのだった。彼女は、突如現れなくなった僕に対して、憎悪と憐憫という、相反する感情を抱いている。同時に、きっと戸惑っている。僕は、彼女の中の困惑と僕自身のそれに終止符を打ち、二人の関係性を、これまで互いにすれ違ってきた全ての感情を、永遠に続く全幸福へと進めるのだ。


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