見出し画像

小説「真・人間失格」(♯27)

31.2016年(1) 〜再びの帰郷〜

 2016年、この年は住んでいるマンションの契約が2年満期になるために更新をする年になっていたのだが、僕は東京に残るために最後まで仕事が増えないかどうか、期待をしていた。

 しかし、1月が過ぎ、2月が過ぎ、改編期にさしかかっても、結果として仕事が増えることはなかった。3月・4月の特別番組や年度末のイベントの手伝いなどの仕事は得ることができたが、基本的に特番やイベントという単発収入はギャンブルや宝くじに小さく当たったようなもの。大事なのは年間を通じたレギュラー番組を得、安定的に収入を得ていくことだ。

 放送作家は人脈が全ての仕事で、この職業ほど人と人との繋がりを問われる職業はないと言っても過言ではないほどだ。脚本家なら脚本力、小説家なら文章力、監督なら演出力、と目に見えてわかる評価基準があるものの、放送作家は優劣の評価がつけにくい。それも作家個人によって持つ特性がみんな違うからである。ある作家は喋ることが得意、ある作家は台本を書くことが得意、ある作家は企画を作ることが得意、ある作家は企画書を資料にまとめることが得意、など個性が分かれる。

 放送作家に求められる職務の一つに雑談をしたり空気を読んで場を賑やかすというものもあるので、大抵、企画力・台本力に秀でている人間よりも喋ることが得意な人間が売れている。重苦しい空気が漂う会議の場を、たとえ大したアイディアを出せないとしても盛り上げてくれる人物が、番組制作の現場では必要なのだ。プロデューサーはその役割を作家に求めてくる。そしてその役割を忠実にこなすと、自然と交友関係が広がっていき、その作家の名前が業界内で知られ、仕事が増えていくのだ。実力より知名度が大事。それが放送作家という仕事だ。

 コミュニケーション能力がない僕は、陰険な連中と付き合うのも苦手だからという理由もあるが、交友関係を広げることができなかったので、知名度が全くと言っていいほどなく、一緒に仕事をした相手には悪名の方を認識されているので、新たな仕事なんて振られることはないのだ。もはやこの業界の表面的には和やかに見せながらもその実は悪い緊張感に満ち、殺伐した空気感と、排他的で陰気な性格の人々が密集する事実に、期待も希望も持つことはできなくなっていた。仕事が入ることを期待してはいながらも、ほとんど僕は新規依頼を諦めていたし、来ない結末を迎えることもわかっていた。そうして2月の末には僕は、マンションの解約を決め、再びあの都心から中途半端な距離にあるために皮肉にもその都心に通える実家に、4月に帰ることになった。

 やはり、僕の2度目の東京生活はまたしても失敗に終わった。1回目は7ヶ月で今回は2年間続けることができたので、その事実は評価してもいいのだが、永続的に住み続けることは叶わなかった。この結果に終わってしまって残念な気持ちもあるにはあったが、2度目の東京生活を始めた段階から実はまたこうなることを予想してはいたし、やはりナンパという不純な動機で始めた一人暮らしが、いずれ破綻することなど目に見えていた。そしてもはやナンパをしなくなった僕にとっては、モチベーションのない状態でよく2年間もう高い家賃を払い、東京生活を続けられた、と自分で自分を褒めたい気持ちにすらなった。

 前回の渋谷時代の契約解除と比べて、今回は失敗には終わったがある程度やりきった感はあり、気分の悪さはそこまで感じず、晴れやかな気持ちで帰省準備に臨むことができた。3月下旬から4月にかけて、この年は寒の戻りもなくて、澄んだ爽やかな空気が吹き込んでくる都心のマンションの11階角部屋は、徐々に荷物が整理されていくことでより風が通りやすくなり、部屋を片付けながら僕は寂しさと同時に、相反する明るい気持ちで家具や溜まった書籍群を段ボールに詰め込んで行った。そして4月のゴールデンウィーク直前、いよいよ引越しの日を迎えた。学生時代から計算すればもう何度目かの引越し。会社の手配から積荷まで作業は慣れたもので、淡々と作業が行われていき、マンションから荷物がなくなっていく様を僕は、大人しく見守っていた。と、同時に、

 「本当にこのマンションから引っ越してしまうのか」

 という、寂しさではなく、ここで撤退する判断をした自分の不甲斐なさ、そして更新料を支払ってもう少し踏ん張れば、また仕事が良い流れで入ってくるかもしれないのに、この時期に実家に戻ってしまうのは、仕事をする上で不利益を被ることにならないだろうかという現実実際的な考えも去来し、トラックへと運ばれていく荷物を見届けながら僕は、

 「待って! やっぱり引越し辞める!」

 と思わず発してしまいそうな衝動にも駆られた。しかし、そんな英雄的な行動を見せることはできず、僕の体温が移った荷物を載せたトラックという速度の出る無機物は、僕の気持ちを汲み取るわけもなく、僕の実家がある千葉のある街へと、発進して行った。そして僕は、荷物の引き取りのために実家へと、電車を使って戻った。よく晴れた、真昼の太陽高度が一番高い時間帯であったために、道中は若干汗ばみながら、実家まで急いだ。

 幾度か荷物を取りに戻ったりしたことはあったものの、この2年間、片手で数えられるほどしか実家には帰ったことがなく、帰ったとしても数分程度しか滞在することはなかったため、実感としては本当に2年ぶりに帰ったことになり、そしてそのいきなりの帰還から再び始まる生活に慣れていくことができるだろうか。特に家族とも仲が良いわけではない僕は、彼らともうまく接していくことができるのかと、後ろ向きな気持ちに、未知の不安が、帰っている最中の僕につきまとった。

 家に着くと、両親はともに仕事に出ていて居らず、僕は自ら鍵を開けて入り、バスルームの棚からタオルを取り出して首に染み付いた汗を拭き取ると、引越し前まで暮らしていた自室へと向かった。引っ越すときに持ち去り、これからこの部屋に戻ってくる家具がないことで、まだ残していったもの以外何も置かれていない部屋は、ところどころ汚れていることがわかり、久々の主人の帰還を穏やかに迎え入れてくれるという雰囲気ではなかった。むしろ、この70年代に建てられた一軒家の耐用年数が限界まできていることを感じた。

 この家が取り壊されることになったら僕は、安定しない生き方を選ぶしかなかった僕は、居場所がなくなった後、どうして人生を生きていこう。そんな沈鬱した思いに胸が捉えられていると、家のチャイムが鳴った。家に着いてから20分ほどだっただろうか。引越しトラックはやってきて、2時間ほど前に積み込んだばかりの荷物が次々と部屋に届けられた。ベッド、テレビ台やソファ、もはやあまり見ることもなくなったテレビ、映画を見るためだけに使っているDVDプレーヤー、大量の書籍、それらを収納する本棚……。考えてみれば僕が生活に必要とするものは多くはなく、数えてみればパソコンにベッド、テレビ、テレビ台に、DVDプレーヤーと後は本棚と本くらいだった。それら以外のものは特に僕の興味の範疇外なので、本来僕は質素な生活を好むことを今回の引越し作業で認識させられた。ソファはどこかに売るか、廃品業者に引き取ってもらおうかとも、実が引越しする前から考えていたのだが、座り心地は良かったのでそのまま使うことにした。

 業者が帰った後、とりあえずは着替えて、ベッドに横になった。住民票の異動手続きや、個人年金、カード、オンラインで利用しているサービスへの住所変更手続きはあとでやれば良い。中山雅樹という中途半端な男に、その中途半端さを脳味噌から末梢神経にまで隅々と植え付けた、この何事も中途半端な町で、この男はこれからまた縛り付けられること、もしかしたら引っ越す必要はなかったのかもしれないこと、いや、この判断は正解で、仕事は増えることはなく、一生とは言えないまでもこの緊縛からは長期間抜け出すことができないかもしれないこと、目をつむりながらさまざまな予測が浮かびは消え、浮かぶごとに否定も肯定も打ち消しもすることなく、考えが波に乗って流れてきては、また忘却の波に乗って流れ去っていくのに任せた。

 そうしているうちに夕方となって母が仕事から帰ってきて、それから1時間もしないうちに父も仕事から帰ってきた。2〜3、両親と機械的な会話を済ませた僕は、なんとなくパソコンに電源を入れ、事務作業を始めた。日付が変わる直前には兄が帰ってきて、再びこの家で僕が生活を始めたことがなんとなく実感せられた。

 しかし、自分の生まれ育った家とはいえ、2年離れていたそのギャップは大きく、どうやらこの2年の間に僕は、精神的にも成熟をしてしまったようで、この実家は実家のように感じることができなくなっていた。自室にいても異空間のようで気持ちが悪く、もし何年とここに暮らすことになっても、ずっと馴染むことはできないという予感がした。その予感は悲しいかな、当たっていた。この文章を実家で作成しながら僕は、部屋を包む不気味で「早く出て行け。お前のいる場所ではない」と言われているような、幻聴ではないものの、空気が僕に囁き、脅しつけているような気を感じている。どこにいても僕が安寧を得ることはできない。この町に戻ってきてから僕は、ナンパをしていた時よりも、種類こそ違えど、もっと深く、簡単には抜け出せない闇に堕ちていくことになった。

32.2016年(2) 〜思わぬ待ち受けていたもの〜

 僕は、昨年から始めたイベント会場での案内のアルバイトをずっと続けていた。主にコンサート会場、ビジネス系の展示会場での案内業務があり、僕は気の向くままに自分の好きな方の業務に参加をしていたのだが、徐々にビジネス系展示会の業務中心に仕事をしていくようになっていった。コンサート会場の仕事は、音楽に造詣が深くない僕にとってはあまり楽しいとは思えなかったし、また、働いているスタッフたちの年齢層も、30歳も過ぎた僕と違って、まだ大学生であったり20代前半のフリーターなど、若手が多かった。彼らはまたお洒落で、洋服の趣味自体は僕も負けてはいないというか、勝ってすらいたのだが、服装だけが洗練されている僕とは違って、彼らは生活自体も今風であり、会話も所作もまさに現代の20代のそれであった。

 僕自身、ナンパという行為をやっていて若い女性たちと話す機会は多かったし、外見こそ20代で通用していたため、内心では20代とはあまり差がないと思っていたが、実際に接してみると、自分の中では思った以上に彼らとの間の年齢差を肌で感じた。彼らの言葉遣いや態度は若々しく、気性は僕が大学生だった頃に見た大学生たちそのものであり、一つ一つの行動も速く、勢いがあった。

 それに対して僕は、話し方も20代前半のそれではなく話し振りもゆっくりで年輪を感じさせるものだったし、所作も素早くなく、仕草も若者たちとは違っていた。座るときや立ち上がるときなどの典型的な仕草に如実に世代差が出るというわけではなく、身体を掻く仕草や振り返る仕草、何かを持ち上げる仕草などちょっとした部分に、彼らにはない老いを感じたのだ。彼らの会話を聞いていると、そこに出てくる大学の話題や音楽、ファッション、芸能人の話題は僕の知らない事柄も多かった。中のチーフたちは僕が一見、それなりに若々しい見た目をしていることもあって、敬語は特に使わずに接してきたことで、彼らには僕の年齢がもう32歳になろうとしていることは気づかれていないようだった。

 しかし、当の僕は恥ずかしくて堪らず、彼らチーフたちや、その他大勢、その場に集まってくるその日限りのアルバイトたちも彼らと同年代が圧倒的多数だった。やはりこのアルバイトは大学生や専門学校生がやるにふさわしいバイトなのである。特にコンサート系はその傾向が高かったため、僕はこの場にいることへの気恥ずかしさを感じてしまった。さらに、コンサートやライブの仕事はまた、アーティストによって客層が違うため、それにも悩まされた。年齢のいっているアーティストや女性に人気のアーティストであればまだ客層も落ち着いているのだが、若者の、それも不良たちが好むようなグループ、バンドの案内仕事の場合は、客層もそういった層が多くて、何度も罵声を浴びたり、応えることが不可能な要求を出されたりと、厳しい思いをした。

 また、もっと個人的に関わりたくなかったのは、テレビアニメや声優関連の、所謂“オタク”と呼ばれる層に向けたコンサートやイベントの仕事だ。客層に、気性が荒いという意味での質の低い人間はいないのだが、その代わり、人並み以上に太っていたり、悪臭を放っていたり、外見に全く無頓着で、清潔感のかけらもない格好をしている人間が多く、彼らを見ていると総毛立つような悪寒に襲われた。もちろん偏見かもしれないのだが、僕は彼らとはあまり側にいたくないと思ってしまった。また、アニメ関連のイベントは、それ以外のジャンルのコンサートやライブのイベントと比べても面白くなく、僕は曲が聴こえてくるのを会場の外で耳にしたり、会場で直接聴いていても、皆目その魅力がわからなかった。

 僕も今までの人生で、高校時代は特に、オタクという括りに入れられることも時々あったのだが、僕自身は所謂そのオタク文化を、嫌悪しているのではなく興味が持てないのであった。声優がアニメのキャラクターに当てている声は不自然にしか聞こえず、雰囲気をぶち壊すものとして怒りすら感じるし、アニメで使われている萌え絵という類の、瞳がやたら大きくて髪の色が赤や桃色のおよそ現実に存在しない人物の画像を「かわいい」と思うことがどうしてもできなかった。僕は、オタクには親和性が低く、かといって非オタクにも親和性が低い。半端者なのだ。そんな僕が逃げ込める唯一の持ち場といえば、海外の名作文学を読みあさることと、名作映画を見ることぐらいなものだった。そんな僕であるから、コンサートやライブ会場での案内にはいつまでも慣れることができなかった。

 しかし、展示会の仕事は、それなりに楽しかった。まず、客層が主としてビジネスマンなので、事業者としての顔を持つ僕にとっては、展示会に訪れる客たちには僕と近い感覚を感じることができた。展示会の開催業種それ自体も、情報関連、工作機械関連、ロボット、住宅、エネルギーなど多岐にわたっていて、どの展示会も僕にとって、客として参加した時に楽しむことができそうだった。

 また、仕事も、コンサートの時はただステージを背にして客の前に立っているだけだったり、関係者以外立ち入り禁止エリアの前で関係者とそれ以外を見分けるために立っているだけなど、そういったあまりに単純すぎる仕事しかなかったものが、展示会になると客に入場の仕方を案内したり、受付にできる長蛇の列を綺麗に並べたり、時には出展企業や主催者とやりとりをするなど、やはり内容は単純ではあったが仕事らしい仕事をすることができた。我々アルバイトが休憩を取るための控え室も、コンサートの仕事の時は会場内の階段だったり廊下だったりすることも多かったが、展示会の場合はビッグサイトの会議室を使わせてくれるなど、環境面でもよかった。

 実家に戻ってきてしまったことで主な勤務先となるビッグサイトまでは、それまで30分であったのが1時間30分にもなってしまったが、たとえ遠くてもコンサートの仕事よりはまだ気持ちが減退することがなく、30代にもなってまともな仕事をしていないことに対する疎外感も和らげることができた。僕は、実家に帰ってからは本業の仕事はほとんどなかったため、仕事といえばこの展示会のアルバイトが中心となり、実家からビッグサイトまで通う日が多くなっていった。そしてこのアルバイト先で僕は、この文章を書くきっかけになった、ある女性と出会った。

 僕の人生で最後の恋となる女性だった。


この記事が参加している募集

読書感想文

読んで頂き誠に有り難う御座います! 虐げられ、孤独に苦しむ皆様が少しでも救われればと思い、物語にその想いを込めております。よければ皆様の媒体でご紹介ください。