好きなことを選択できないことについての一考察

甥っ子、姪っ子を預かって10日。実家からうちの親が迎えに来ました。
久々に親と会って、また甥っ子姪っ子を通してのうちの親の姿、過去の自分を見て考察した新鮮な気持ちを忘れたくないので、今日も一考察。

預かった甥っ子姪っ子たちは、小学校6年4年幼稚園年長でした。

彼らを預かって真っ先に感じたのは「自分のことなのに、自分で決められない」ということでした。お小遣いをもらって本屋に行ったのに「ねえ、まぶこ。これ買ってもいい?」駄菓子屋に連れていき、好きなものを買ってもいいというと「これとこれ、買ってもいい?」と聞いてくる。
我が家の子供たちは買うものに限らず、なんでも好き勝手にして、事後報告。もしくは報告なし、というパターンが多い、いやそれしかないので、私は正直戸惑いました。(まぁ年齢的なものもあるかのしれませんが・・・)
それと同時に、自分の子供時代のことを思い出しました。


「それは今しないほうがいいよ」「それを買うのはどうかと思うよ」私の親は、常に意見を挟んでいたなと。なので私も子供時代、そして大人になっても少しの間、親の顔色をみながら何かを決めるようなことをしていたかもしれません。

ではそんな子供時代を過ごした私は、どんな大人になったかというと、「自分が好きかどうか、欲しいかどうか、やりたいかどうか」で物事を決めることができませんでした。そのかわりに「これをするとどう思われるのか」という軸で考えていたように思います。
そしてさらにどうしてもやりたいこと、もしくはしたくないことに関しては、相手がそうなるように仕向けるようにすることも意識的、無意識的問わず、あったような気がします。例えばどこか自分の意に沿わないところに行かされようとした場合に、体調を悪くして、「行かなくてもいいよ」と言わせるように仕向けたり・・・。多分昨年のアルコール大量摂取引きこもり事件も、私の「無意識」が仕向けたことなのかもしれません。

そんなことを考えながら、小4の甥っ子に「好きなものを買っていいんだよ」と伝えました。彼は渡した200円すべてをかけて1回20円のくじ引きを10回し、すべてはずれをひき、まわりがアイスやらジュースやら飲んでいるのをうらめしい顔をしながら、小さなガムを噛んでいました。


しかし昨年、人生がぶっ飛んで再インストールとなった私の価値観はガラっと変化。



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