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科学技術の便利さがもたらす、大きすぎるギャップ

人間は、現状の生活から著しくレベルアップした便利さというものを見せられたときは、決して魅力的に感じる事はない。



例えば、友人にガラケーを使い続けた人がいたが、彼は日本にiPhoneが入ってきてからも全く見向きもせず、ずっとガラケーを使い続けた。本人が言うには「必要ない。ガラケーで十分」とのことで、いわゆるスマートフォンの持つ利便性というものに全く興味を示さず、どういう点が便利なのかを知ろうとはしなかった。
ところが、10年が過ぎてさすがにガラケーの新モデルも発売されず、お年寄り向けのAndroidガラケーが発売される頃には、機種変が出来なくなった。
ガラケーなら良いだろ言うと思うかもしれないが、そうはいかない。
何せ使い方が変わってしまってはガラケーにする意味がない。
とにかく変わってしまっては困るのだ。

2007年6月29日にはじめて日本で発売されたiPhone3G

これは現在だけの話しでは無い。
例えば、江戸時代の武士に「自動車」という文明の機械を見せるとする。
「これは、車と言ってガソリンで動く。運転すればどこまでも遠くへ楽に移動できる」と説明しても、武士は喜んで使うだろうか?
いいや使わない。
「いやー、俺には元気な馬があるからいいや」といって今まで通りの生活を続ける事を選択する。
その時代にそぐわない異常な便利さにたいして、恐怖信心や疑いをもち、好んで使おうとしない。
これは「馬」と比較して「自動車」の利便性があまりにもジャンプアップしており、その本質を掴む事が出来ず、心理的に拒絶反応が起きてしまう事にある。

クルマ


このように、発展や進歩のギャップがあまりに大きすぎると逆に便利に感じるどころか、不便に感じてしまい現状を維持する事を選びたがる。
できるだけ今まで通りにちかく、やり方などが変わらない事を望む傾向にある。


視野を広げるためもう一つ事例を紹介する



ある友人が、自宅で古いパソコンを13年以上にわたって使い続けた。
そのため性能としては限界を迎えており、操作性、反応スピード。すべてにおいて使用に耐える代物ではなかった。
特に大きい問題は、ブラウザーがiPv6に対応しておらず、Yahooサイトですら表示しなくなった。
やむを得ず新しいパソコンを買ったが、それからが問題だった。
とにかく13年ぶりなのでOSの進化が大きく、使い方が全く変わってしまった。
そのため、評価は「ものすごく使いにくい」という一点である。
やった事は設定を変更しまくり、できるだけ過去のOSに近い使い方を実現する事だった。
これはもう悲劇でしかない。
便利になったあらゆる機能をOFFにし、アナログで遠回りな使い方に戻していくのだ。
サポートしていてこんな後ろ向きな仕事ほど憂鬱なことはない。

iMac

もちろん、これらの事例をみるに、新しい道具が不便になったという話ではない事はあきらかだ。
むしろガラケーの事例に至っては、明らかにガラケーの使い方の方が難しく、スマホの方が使いやすい素人向けのツールと言える。
ガラケーを使ってアドレスの登録するほうが難しいくらいだ。

そう。
この問題は「便利さの持つ意味を理解できない」という点にある。


写真を撮ってそのままSNSにアップできるという楽しさがわからないのだ。
スマホでAmazonを開き、注文すると翌日には最安値で購入した日用品が届く。近所のどのドラッグストアーよりも安く手に入るし、売り切れの心配もない。
セールだからと言って、雨の日にクルマで出かける必要もないのだ。
しかし、その価値がわからない。
「10分でお店に着くのに、わざわざ東京からヤマトに配送して貰うの?意味わかんない」という具合である。

配達してもらえる


人間というのは少しづつ進歩することのほうが、変化についていく事が出来る。


生活が便利になるのは望んではいるが、あまりに大きなジャンプは人を困惑させ、拒絶をまねく。しかし人は自己の行動を正当化する習性があるので「こんな機械に毒されて、振り回される生活はいやだ」ともっともらしい理由を後付けするようになる。

もちろん、発展する社会の方が悪いという話しでは無く、ある程度時代の変化についていかないと、とんでもなく差が開いてから、価値を理解しようとしても手遅れになってしまうとうことだ。