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毛利家と大室寅之祐 3世オリジナル

名門毛利家


今回は謎に包まれた名門・毛利家についてお話しします。


毛利家は鎌倉時代から続く古い家柄であり、最盛期には山陽道・山陰道10か国と九州北部の一部を領国に置く最大級の戦国大名に成長し、江戸時代には長州藩(今の山口県)の外様大名となります。

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私の記憶では、毛利家が歴史の表舞台に登場するのは3回。


1.秀吉の毛利征伐(中国攻め)
2.関が原の戦いで毛利が西軍の総大将
3.薩長同盟から倒幕、明治維新



以上3つの出来事から、毛利家が歴史から守られていることが分かります。

解説していきます。



1.豊臣秀吉の毛利征伐(中国攻め)では合戦に至る前に和睦。

豊臣軍が毛利討伐に出かけた最中に、本能寺の変がおこりました。秀吉は毛利との合戦を中止し、和睦を結んで、信長の元へ飛んで帰りました。



2.関が原の戦いでは毛利が西軍の総大将になりましたが、合戦しても一兵たりとも失いませんでした。

石田三成を差し置いて毛利が総大将になったのにはある理由がありました。



3.薩長同盟から倒幕、明治維新ですが、幕末の長州藩は池田屋事件、禁門の変、四カ国連合艦隊の下関攻撃、幕府の長州征伐でボロボロでしたが、坂本竜馬が執拗に薩摩に働きかけ薩長同盟を成立させ、討幕運動の主役にまで上りつめます。



毛利家が歴史から守られていることについて、大胆な私見をいいます。



それは......




「室町時代に滅びた南朝の天皇(後亀山天皇)を毛利家が保護し匿った」からです。

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そう考えると、毛利征伐のタイミングで起こった「本能寺の変」は、本筋の天皇の血統を守るための陽動作戦だったという考察もできますね。


また、関が原の戦いでは、豊臣五大老の中で毛利家が西軍の総大将に最もふさわしいです。




毛利家の血筋


坂本竜馬がなぜ必死に長州を助けようとしたのでしょうか? 毛利家が南朝の天皇の血筋であることは、理由の1つになるのではないでしょうか?



そして幕府は、なぜ執拗に2度までも、長州を葬ろうとしたのでしょうか?


また「錦の御旗」を掲げたことにより幕府軍が総崩れとなりましたが、なぜ在天皇の「錦の御旗」を薩長軍が持っていたのでしょう?


さらに、幕末までは天皇は京都御所にいたのに、明治維新以降は明治天皇はなぜ西洋の服を着て東京にいたのでしょう?


京都御所にいた天皇は北朝で、東京にいた明治天皇は南朝と考えると、スッキリいたします。
(この辺の言葉遣いがなっていないのはご容赦下さい)



足利尊氏によって作られた北朝に対し、継承が正統な南朝、その天皇を数百年間匿った毛利家、、、となれば、毛利家とその家来の中に天皇の血を引いている人がたくさん居たのではないでしょうか。




ちなみに、安倍晋三元首相は山口(長州)出身ですが、天皇の血は引いてないそうです(秋田の血)。





毛利家の歴史


以下、簡単に史実を振り返ってみます。


【1.秀吉の毛利征伐】1577年


豊臣秀吉は織田信長の命を受け、毛利征伐(中国攻め)に出かけました。
しかし本能寺の変が起こったため、秀吉は毛利と講和を結び、明智光秀追討に向けるために撤収しています。


(毛利征伐も本能寺の変も出来レースですけどね)

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【2.関が原の戦い 西軍総大将】1600年


関ヶ原の合戦で、西軍の総大将は石田光成ではなく、豊臣の五大老の1人である毛利輝元です。
しかし、西軍が壊滅する様を目の当たりにして、毛利勢は戦わずして撤退、追撃を受けるが退却に成功しました。

(これは明らかに出来レースです。本能寺の変が茶番であったと知っているもの同士、家康と毛利家は通じていたと思われます。また信長は、家康を後継者指名して旅立ったらしいですから)

その後、西軍に加担した多くの大名は、上杉家を筆頭に配置換えなどで領地を小さくされました。
しかし、毛利家は配置換えもなく、領土の一部没収などの裁きも一切受けませんでした。

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【3.薩長同盟から倒幕、明治維新】1866年~


池田屋事件、禁門の変、四カ国連合艦隊の下関攻撃でボロボロの状態の長州に、追い討ちをかけるように、幕府の長州征討が開始されました。


しかし、坂本竜馬の仲介で薩長同盟が結ばれ、第二次長州征討の幕府軍を撤退させました。この後、討幕運動からの江戸城無血開城、明治維新へ......。


つまりは、長州は何故か歴史上一度も勝つことなく、覇者であるという不思議。では、毛利家が匿っていた天皇家はどうしたのでしょうかね?

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最前列のど真ん中にいる、長州藩士:大室寅之助ですが、明治天皇とそっくりだと言われています。

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歴史を振り返ると、天皇家の本流(南朝天皇家)が明治維新で戻ったと考えるのが自然でしょう。






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