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怒りを忘れたキリスト者(下)

10年目の回顧。(2011年7月6、7日「松ちゃんの教室」ブログ記事再掲)

地元住民の怒り

 まずは、地元住民による「怒り」を参考までに紹介したい。

 マスコミでも報じられるようになった幼い子を持つ親たちの不安と怒りは
察するに余りあるが、以下の文章は、かつて福島県の浜通りで教員をしていたという福島市内在住の一信徒による原発をめぐる怒りの告発である。

思い出すだに腹が立つ
 忘れられない光景があります。実は私は、福島原発1号機が運転開始(1971.3.26)して間もない1974年から81年の7年間、原発から北へ20数キロ地点にある福島県立原町高校に勤務しておりました。赴任した時には既に、国に対する「原子力発電所設置許可取り消し」訴訟が提起されていました。いわき市を中心に百数十人に及ぶ原告団には、教職員組合の仲間も大勢おりました。私もその隅っこで運動につながっていました。
(中略)
 さて福島地方裁判所での判決言い渡しの日です。仲間の車に乗せられて早朝から地裁の前に集まりました。テレビ局や新聞社の取材でごった返すなか、集会を開きながら緊張して判決を待ちました。10時開廷だったと思いますが、開廷したかと思ったら間もなくです。中から「不当判決」の垂れ幕を下げた人が走り出てきました。「門前払い」だというのです。安全基準に問題はなく、その基準にもとづいて許可をした国に手続き上、誤りはない、原発事故その他によって現実的に損害を被ってもいないあなた達には、そもそも訴訟を起こす権利はない、というものでした。
 あれから30余年、現実的に損害を被ってしまった今になって初めて、「あなた方にもようやく裁判を起こす権利が出来ました」とでも言うのでしょうか? 何を言っているんだ、という怒りの思いとともにあの裁判所前の光景が浮かんできています。
 それにしても霞ヶ関の政治屋さんたちの政争は論外ですが、遠藤勝也富岡町長をはじめ、井戸川克隆双葉町長など原発周辺の8町村の首長たち、それに佐藤雄平福島県知事、あなた達の言動は考えれば考えるほど腹が立ってきます。何を今更「国と東電にだまされた」「だまされた」と被害者ぶっているのですか。だまされた人は免罪なのですか。「だまされた」などと言う前に、「私も国と東電と一緒になって、みなさんをだまし続けてきました」と自らの不明を詫び、謝罪するのが人としての筋ではないか。
 原発を誘致し、増設運動を旗印に選挙の度に当選してきたのは一体誰。「原発と共存して豊かなる街づくり」を標榜していたのは誰。プルサーマル計画を無期延期していた佐藤栄佐久前知事の失脚(『知事抹殺』?)を受け、原発推進を自らの哲学的信条としていた民主党最高顧問渡部恒三の鞄持ちから知事となり、昨年10月26日に三号機でプルサーマル営業運転を認めてから、わずか5ヶ月、今日の事態を一層大きなものにしてしまったのは佐藤雄平知事、あなたではありませんか。
 それを、謝罪に来た東電の清水正孝社長の前に、地元の高校に戻りたいと訴える高校生の新聞記事を示して、「あなたがたには、この高校生たちの気持ちが分かるのですか!」などと涙ぐんで見せる。茶番ではありませんか。「こんな気持ちにさせてしまった、私の不明をいくらお詫びしても、詫びきれないのです。高校生のみなさん、誠に申し訳ありませんでした」と謝罪するのが先決だと思うのですが。
(日本キリスト教会東京中会 震災対策事務局「震災対策News」No.6より抜粋)

「慈悲の怒り」

 最後は、締めくくりにふさわしい新刊を1冊ご紹介。

 まさに、震災後の「怒り」をテーマとしたこの本は、あの『がんばれ仏教!』(NHK出版)を著した文化人類学者の上田紀行さんによる緊急出版。「震災後を生きる心のマネジメント」と副題にあるように、宗教者に限らず、今回の震災で得体の知れない「モヤモヤ感」を抱えている人にとっては必読の書となりそう。

 …といっても、決して怪しげなスピリチュアル関連本でもなければ、お手軽な心理学や自己啓発の類でもない。著者のメッセージはいたってシンプルである。「天災と人災を明確に分け、天災による被災地の救援は徹底しつつ、人災をもたらした構造はよく認識し、変えていくべき」

 その「変えるべき構造」というのが、第二次世界大戦における
敗因にも通じる責任者の精神構造。つまり……「既成事実への屈服と、権限(役割)への逃避。そして、この時期に関わってしまった『私』は、状況の『被害者』なのだと言わんばかりの精神構造」である。そして、次々と襲いかかる不安とのつき合い方については次のように提言する。

 社会状況の中に重大な隠蔽があったり、社会全体の舵取りがおかしいといった、不安を生じさせるのが当然な重大な事態の時は、きちんと不安になったほうがいい。しかしパニックに陥ることなく、その不安が何によるものなのか見極め、単に自分の不安感の解消を目的にするのではなく、もっと大きな「不安の原因」を解消するように合理的な行動を取るべきなのです。操作された情報を鵜呑みにして不安を解消しようとしたり、「がんばろう」といった判断停止の言葉に逃げ込んで不安を忘れたりといった逃避行動ではなく、冷静かつまっとうな行動が要求されているのです。
 不安は無くすべきものではなく、活かすべきものなのです。

 さらに著者は、ダライ・ラマ14世との対談において、怒りには慈悲の心から生じるものと、悪意から生じものの2種類あることを気付かされる。ダライ・ラマによれば、前者は有益で「持つべき怒り」だという。

 私たちは宗教というと、非論理的で、感情をかき立て、私たちの合理的判断を誤らせるものだと考えがちです。しかし仏教の「縁起」の考え方は、きわめて論理的で、そして人間に苦しみをもたらす世界の歪みに対して立ち向かっていく、力強い合理性を持っています。「怒り」が忍耐をもたらす……、それは最初は非常に意外に聞こえます。しかし、人にぶつけてしまうような「小さな怒り」しか持てないから、怒りは暴力の連鎖を生んでしまう。
 ……私たちが考えるべきは、この社会をいかに人間の善きところを引き出せるようなシステムにしていくかということです。そしてもし現実の世界が人間の悪の部分を引き出してくるようなシステムであれば、「大きな怒り」を持って、そのシステムを変えていくことなのです。

 読後感は、まさしくスッキリ。しかし、同時に忸怩たる思いにも駆られた。それはこの間、一般誌によるキリスト教特集が注目を浴びた折にも感じた感覚と同じもの。「これは本来、私たちがやるべき仕事だろう」と。

 いや、私たちにできないことを代わりに担ってくださる方が教会外にいたと、むしろ感謝すべきかもしれない。残念ながら現代日本のキリスト教界はこの著作に匹敵するような知性も良心も、言葉も人材もまだ持ち合わせていない。それを発掘し、育て、読者と共有するのが、私たちに課せられた大きな責務である。

 最後に、著書の中でも紹介されていた上田さんによる東京新聞への寄稿から。キリスト教の「すべきこと」も、ここにこそある。

 寺や教会の大切さをいまいちど認識したい。それは非常時には支援の網の目となり、またふだんからそこに集う仲間たちの存在が苦しみに直面した中で大きな力となる。そしてもちろん、すべてが失われ、極限の苦悩に瀕しても、神や仏とともに生き抜いていける信仰の力は大きなセーフティーネットとなる。目に見える救い、助け合う人の絆、目には見えないが信ずることの中にある救い、それらが多重に張りめぐらされた信頼社会の中に「救いの力」はある。(2011年4月23日 東京新聞「『救いの力』の復活を・下」)


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