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僕(しもべ)は友達が少ない

テモテへの手紙第二4:16~18

 両親が熱心なクリスチャン(ガチクリ)という「クリスチャンホーム」に生まれたため、テレビ視聴は週30分、就寝は夜8時など、厳格な特殊ルールがいくつもあった。ファミコンも買ってもらえず、友人の家に入り浸るという不遇な幼少期を過ごす。さらに、福島の片田舎だったこともあり、家がキリスト教であること、日曜日に教会へ行くことなどはとうてい公にできない秘密だった。初めて自らクリスチャンであることを積極的にカミングアウトできるようになったのは、大学に入ってからのことだった。

 そんな特殊な家庭環境だったこともあり、中二病をこじらせ、高校3年まで本気で「漫画家になりたい」という夢を引きずった。まだオタクが市民権を得ていない時代でもあり、学校や教会でも素直に公言できず肩身の狭い思いをしていた。紆余曲折(2度のジョブチェンジ)を経て、「キリスト新聞社」という業界紙の仕事をする身になったが、長い間「友達」と違うこと、少数派になることを過剰に恐れていたと思う。

 現代においても若年層にとって「友達」関係は重大な関心事である。SNSが普及した今、「いいね」の数、フォロワーの数に一喜一憂し、LINEの既読・返信に神経をすり減らすという息苦しい「友達」付き合いに振り回されてはいないだろうか。キャンパス内で「ぼっち」だと見られるのを恐れてトイレ内で弁当を食べるという「便所飯」が社会問題になり、さらにはクリスマスに一人でいることを形容する「クリぼっち」などという用語まで登場した。主の降誕を祝うのが本来のクリスマス(そもそも生誕祭は「推し」キャラのフィギュアとバースデーケーキさえあればお祝いできるはず)だが、一人で過ごすことが、さも寂しいかのような風潮には違和感しかない。

 聖書の時代、イエスの「僕(しもべ)」である弟子たちも「友達が少ない」ことに翻弄されていた。選ばれた精鋭であるはずの十二弟子さえも、数々の「しくじり」を繰り返し、最終的にはイエスをも裏切った。「テモテへの手紙」を書いた伝道者パウロも、「だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました」と綴っている。この書簡は、パウロによる数々の手紙の中で最後の手紙とされているが、晩年に処刑されるまで、孤独との闘いは続いた。しかし、ここでパウロは「主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました」とも告白している。決して希望を捨てない信仰者の姿がここにある。

 私たち現代人は、復活のイエスを「見るまで信じない」と拒み続けたトマスのように、「目に見える」現象のみを信奉し、右往左往する弱さを抱えている。しかし、同時に「風水」「占い」「血液型」など「見えないもの」に縛られて生きていることには無自覚である。私たちキリスト者は、たとえ「友達が少ない」ように見える孤独な状況にあっても「インマヌエル」=「神共にいまし」との宣言を信じて歩む。それは「ポケモンGO」でスマホを介して、あたかもそこにポケモンがいるかのような世界に浸るように、聖書というアプリを介して、この世に臨在する主なる神を実感できる信仰の故である。「インマヌエル」は、いわば「ぼっちなんかじゃない」という聖書の中心的な福音のメッセージなのだ。

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