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「無言化社会」の恩恵にあずかる

最近、徒歩圏内のファミマに設置されていたメルカリポストが全店舗でサービスを終了することになった。メルカリで頻繁にやり取りのあるヘビーユーザーとしては、この上なく便利で快適だっただけに残念でならない。

何が快適かといえば、レジで言葉を交わす必要がないことに尽きる。バーコードをかざし、出てきたラベルを荷物に貼ってポストに入れるだけ。この間、わずか数十秒。しかし、この工程に他人の手を介さないだけでかなり気が楽になるのだ。

根がコミュ障なので、とにかく店員と話すのが億劫で仕方がない。スーパーのレジはできれば「セルフ」がいいし、ガソリンスタンドも極力「セルフ」を探して給油するようにしている。会話といってもたかだか「お願いします」「はい」「どうも」程度のターンだが、これがあるのとないのではかかるストレスがまるで違う。

その意味ではコロナ禍で導入されたタッチパネル式のオーダーシステムには、感謝しかない。ビバ! 人類の進歩と調和!!

いま通っている美容院は、かれこれもう10年近くになるが毎回担当してくれる美容師さん(名前も知らない)とオーダーとあいさつ以外で言葉を交わしたことがない。これが実に快適である。今日は何を話そうか、次はどんな話題を振ろうかと悩まなくていい。沈黙が苦にならない。別に人と話すのが嫌いなのではない。仕事上の関係である立場の第三者と、仕事の範疇を超えたやり取りをしたくないだけなのだ。

この感覚、共感してもらえる気がまるでしない。

1987年から中1国語の教科書に採用された説明文「無言化社会の中で」の内容を、なぜか鮮明に覚えている。自販機やゲーム機の普及など、社会生活の機械化・都会化による「無言化」で「コミュニケーションの機会と経験」が奪われかねないと危惧する国語学者、樺島忠夫氏によるものだ。

まだLINEもSNSも、PHSもポケベルも生まれるはるか前の国語教材。当然、言及される事例も今の時代にはそぐわないものばかり。しかし、2013年の長崎県学力調査で国語のテストに採用されている。文学作品ではない。約30年前の教科書に載った説明文から、主旨を読み解くというもの。

学者といえど、数十年先の社会状況を予見することは不可能だろう。いまやあらゆる場面で「セルフ」が当たり前となり、私のような人種にとっては生きやすい環境が整ったとも言える。果たして現代は「無言化」したのだろうか。少なくとも当時の懸念とは、だいぶ異なる未来を生きていることだけは確かなようだ。

樺島氏は「言葉によるコミュニケーションを成り立たせる条件」として、「人と人との関係を温かい心で保ち、積極的に人に話しかけようとする態度をもつこと」「人から話しかけられたら、それを正しく理解し、必要によって、的確に答えるという態度をもつこと」「自分の考えが他人にわかってもらえるように表現する能力を身につけること」の3点を挙げ、「自分の表現能力が十分でなく、またそのことに気づかないでいると、他人は自分を理解してくれないと誤解したり、世間は冷たいと思いこんだりすることにもなる」と指摘している。(「無言化社会の中で」より)

いま振り返れば80年代当時の懸念として分からなくもないが、中学生ながらモヤるものを感じていた。時代の変化とともに当然コミュニケーションの質は変わるだろうが、果たしてそれは単に「劣化」と言えるだろうか。新語・流行語の台頭を「言葉の乱れ」として必要以上に毛嫌いする風潮にも通じる違和感。

無論、今日のネット言論やSNS上での不毛な議論、分断状況などを指して「無言化社会の弊害」「30年以上前の懸念が現実のものになった」と解釈することもできなくはないが、やはりどこか無理がある。機械化・都会化は新たなコミュニケーションの可能性を開拓し、まったく異なる新しい問題を生み出した。

この件に限らず、80〜90年代の空気感(世紀末へのアンビバレントな憧憬)を知る者としては、必ずしも夢と希望ばかりとは限らない未来を批判的に憂いてみるのが、あらゆる学問領域で最先端の流行になっていたことも否めないのではないかと思う。

ともあれ私はいま、かつて危惧されていた「無言化社会」の恩恵を多分に受けながら、快適に生活している。失われた麗しい光景も当然あるが、昭和の忌まわしい遺物は姿を消しつつあり、当時は予想だにしなかった新しい選択肢が生み出された。もし30年前のモヤモヤした自分に声をかけられるなら、そのことだけでも教えてあげたい。未来は案外、悪くない。

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