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かもしれない運転が対話を救う-あるいは解釈と感知の違いについて

この人きっとこうなんだろうな。

こういう決めつけを人はよくします。電車で席を譲った人を見て、普段から気配りのできる優しい人なんだろうなと思ったり、職場で貧乏ゆすりをしている人を見て、余裕がなくていつもイライラしているんだろうなと思ったり。

決めつけたら最後、その事実は確認せずに終わります。
あーそういう人なんだと思って終了です。

でも私たちが知覚できる、服装、振る舞い、表情、声、言葉などは、その人の内側に広がる大きな世界のなかのほんの一部が表出しているに過ぎません。

きっとこうなんだろうと決めつけたことの一部は当たっているかもしれませんが、それは100%の内の1%部分をたまたま言い当てた程度のことでしかないのだと思います。その奥にもっと広く深いものが広がっているはずです。

その決めつけを決めつけにしたまま対話をしていると何も深まりません。
お互いにお互いのことを決めつけあっているからです。

この状況を打破する方法があります。かもしれない運転です。
「この人はきっとこういうふうに物事をとらえているのかもしれないな。でも実際はどうなんだろう?」

そんな好奇心をもって対話をすると、思ってもいない、さらに一歩踏み込んだものが得られます。その場に出してみた「かもしれない」が、当たっていようが、外れていようが、どちらにしても有意義なものになります。

これは知覚できる一部のことから何かを感じ、その人の内側で何が起きているのかを知ろうとしているからです。知ろうとすることと、決めつけることは全然違います。

「〇〇くんって黙って席を譲るよね。あれってどんな意味があるの?」

そして面白いことに、聞かれた当の本人も、自分を知るきっかけになります。普段無意識的にとっている行動を改めて顧みる人はほとんどいないからです。「言われてみれば何がそうさせるんだろ」そんなふうにぐっと内省が深まります。

「あー、なんかいいことしてる自分が小っ恥ずかしいのかもなあ。たまたま立ちたくなっただけなんで、みたいな感じくらいに思われたい。」

相手から表出したものから何かを決めつける態度を解釈、表出したものの奥に何が隠れているのか、相手に好奇心を向ける姿勢を感知と呼んでいます。

相手のことを深く知れることは嬉しいし、自分のことを知ってもらえるのも嬉しいものです。何気ない対話において互いが感知の姿勢で関われたらきっとすてきな関係になれるでしょう。

かもしれない運転で、相手の心へ好奇心を向けてみてください。
新しい発見があなたを待っていますよ。


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