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「ニューヨークが生んだ伝説の写真家 永遠のソール・ライター」

2017年のソール・ライター展がよかったから今度も行きたい、と誘われて行ってきた。
ライターの作品を私はほぼ初見、名前を聞いても「ソウル・イーター?」(※大久保篤による日本の漫画作品)と思ったくらい。
Bunkamuraザ・ミュージアムにも、最近いつ行ったか思い出せないほど久しぶり。

で、すごくよかった。

帰り際に、会場の外に掲示してあるポスターをライター風に撮ってみようとしてみた。

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上りのエスカレーターに乗りながら撮ったので全然イケてるのは撮れなかった。あたりまえだけど。でもこれから、鏡やガラス越し、隙間からの写真を、自分でも試してみたいと思わされる。簡単に影響されすぎかな。でもそれだけ、真似したいと思えるような彼らしさを表すものがあるというのはすごいことだ。
一貫した構図や意匠を、彼は自然に、日常行動としてカメラに収めてきたからこそ、すべての作品群に意味が生まれる。写真だけを見て誰が撮ったものかわかりますかなんて聞かれて答えられる人はどのくらいいるのか、あるいはその質問で正解を得られる写真家はどのくらいいるのか。絵画以上に筆致のようなものがない世界で、(トーンや粒子感や色合いなどに独自色は出せるんだろうけど)難しいよね。

今回の展示を見るまで、過去には「モノクロ写真でなければ芸術ではない」という価値観があったことを認識していなかった。そうだ、技術の開発が進んだ後、時を経てカラー写真に芸術的意義が「与えられた」のだ。カラー写真になったライターの作品も、やはり同じ撮り方。それでも、モノクロのときのほうが多くを語っていたように思えるのは、なぜか。

全然話が変わるけど、女性は今の恋人に対して過去の恋愛について話しがち、対して男性は過去の恋愛のことを話したがらないし聞きたくもない、という傾向にある気がする。(こういった話を男女で分けるのがナンセンスだという指摘はひとまず置いておいて)
その意図は、女性は過去の恋愛について話して「手の内を明かす」ことで、それ以上はないと伝えたい。知ったほうがそれ以上の余計な想像をしなくて済むと思うから。
一方で男性はというと、言われなかったら想像しなくて済んだのに、知ってしまったらリアルに想像してしまうではないか、なんでわざわざ想像させるんだと嫌な気分になるようだ。
情報を与えられればそれ以上想像しないという人と、情報が与えられなければ想像しないという人。知ることで安心する人と、知ることで不安になる人。
なんとなく、モノクロ写真という、カラー写真より少ない情報を与えられたときに、想像力の使い方に男女で違いがあるのかななんて思った。
全然関係ないですかね。

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写真は、ライターの部屋を再現した展示。ライターはもともと画家を目指していたとのこと。私としては、この展示のそばにあった、長く撮り続けた親しい女性のポートレート写真よりも、古き良きニューヨークの街角にいる名もなき人を撮った写真のほうが好きだった。より、「偶然を切り取る」感じが好きなのかな。

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