ディアスポラ

 東京都北区某所に位置するマンションの巨大な地下室で、内海はPCの画面に連なるコードを目で追っていた。周囲の会話や物音が普段よりも耳に障り、いくらか疲れが溜まっているのだろうと思い当たる。目頭を揉みほぐしてから、大きく息を吸う。肺に溜め込んだ空気をゆっくりと吐き出すと、周囲の話し声や足音が遠のいてゆき、ハッピー・ハッキング・キーボードをタイプする軽快な音だけが明瞭に聞こえてくる。いまは使われていない倉庫から発見した代物だった。仮想キーボードも悪くないが、使い慣れた物の方が手に馴染む。古い慣習に囚われていると笑うのなら、それはそれで構わない。勝手にしてくれ。
 直後、両手を打ち鳴らすような音が内海の意識を現実へと引き戻した。
 周囲のざわめきは静寂に変わり、皆が一点に視線を集める。キーを叩く手を止めて目を向けると、とが肩を並べて立っていた。途端に、室内に緊迫した空気が流れる。組織が百人の大所帯を越えてもなお統制がとれているのは、共同創設者であるこの二人の男の功績が大きい。志木には並外れた知性と技術力があり、御堂には通常の枠を超えた魅力がある。
「時間だ。始めよう」
 姿勢を正した御堂が重々しく宣言し、その隣で志木が眼鏡越しにこちらを見回す。
 その言葉一つで、皆が一斉に持ち場に移動し始めた。だが、流れに反してニヤニヤと笑いながら、肩を揺らしてこちらに近づいてくる巨軀の男が一人。
 組織のスポークスマンを務める阿笠だ。
「おい内海、よろしく頼むぜ。御堂さんも志木さんも、今日はいつも以上に気合入ってるからな、絶対に成功させようや」
 握りこぶしで肩を叩かれ、思わず苦笑いをする。気さくなのは構わないが、力が強すぎる。単刀直入に言えば筋肉しか取り柄のないような男だ。とはいえ、少年のような快活さを羨ましく思うこともある。それに何より、彼を抜きにして組織は成立しない。
「こちらこそ、よろしく頼むよ」
 言いながら、最終チェックの済んだ原稿を阿笠の端末に送信した。通知に気がついた阿笠が端末をポケットから取り出し、内容を確認する。悪くないと言いたげな表情で、こちらを向いた。
「サンキュー。じゃあ、いっちょカマしますか」
「ああ、また後で」
 手をひらひらとさせながら人混みに消えていく阿笠の後ろ姿を眺める。
 祝祭の始まりだ。

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