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【小説 #34】10 years after

昼過ぎから降り続いた雪が、夜になってようやく止んだ。午後七時を少し過ぎた辺り。街並みを白く染めた積もりたての雪を踏みしめながら、多くの人々が家路へと急いでいる。吐き出す息はまるで濃い煙のように白い。今夜も冷え込みが厳しくなりそうだ。

片桐哲夫はこっそりとスマートフォンの画面を確認した。
この一時間で四度目だ。しかし過去三回と同様に会社以外に誰かから連絡が入った形跡はない。失望をたっぷり含ませたため息がこぼれる。
 
いらっしゃいませ。
クリスマスケーキは如何ですか?
美味しいクリスマスケーキですよ。
お土産にどうぞ。
メリークリスマス……。
 
横では同僚の高洲祥子がずっと声を張り上げている。
「片桐さん、ちゃんとケーキ売ってください。あたしにばっかり押し付けるんだから」
「ああ、すまん」
祥子は哲夫よりちょうど一回り後輩の二十八歳。元々の性格に加えて仕事を一緒にする機会が多いせいか、哲夫にはざっくばらんな物言いをする。おかげで哲夫も祥子には気を遣わずに接することが出来た。

駅前通りを挟んだ向かいにある札幌グランドホテルに、着飾った数組のカップルや家族連れが吸い込まれる。一階に店舗を構えるカフェでは各テーブルでキャンドルが灯され、明かりが曇った窓ガラス越しに仄かに揺れていた。

それにしても寒い。
二人の足元には簡易ストーブがフル回転で稼働しているが、役目を果たしているとは言い難い。足元からじわじわと辛さがせり上がってくる。
「何でこんな日にこんなことしてんだろ」
祥子が会社のロゴマークが入ったオレンジ色のダウンジャケットの袖口をしきりに気にしながら愚痴る。
「クリスマスですよ。それなのに片桐さんとペアルックって」
「仕方ないよ。仕事なんだから」
「そりゃそうですけど」
「どうせ予定なんかないんだろ?」
「片桐さんと一緒にしないでくださいよ。今日だって一人で家にいても寂しいから来てるくせに」
いつもの憎まれ口を聞き流し、哲夫はまたスマートフォンを確認した。
 
哲夫が離婚したのは昨年のことだ。五歳になる娘の親権は元妻に渡った。離婚が成立して以来、彼女と連絡を取ることはほとんどないが、不定期に会う娘から大体の様子は聞いている。どうやら付き合っている男がいるらしい。娘もその男を気に入っているようだ。どうせ今夜は三人でパーティでもしているのだろう。いつまでも娘からの連絡を待っている自分が惨めに思えた。こんな日に仕事などしたくはないが、帰宅したところで外と間違う程に冷えた空気に出迎えられるだけだ。それならばこうしている方がまだ気を紛らせることが出来る。むしろ気の毒なのは祥子のほうだ。ああは言ったものの、本来ならば今頃は恋人と素敵な時間を過ごすはずだっただろうに。自分のせいではないとは思いつつも、哲夫は同情せざるを得ない。

「この時期になるといつも男と別れるんですよね」
唐突という言葉が最もふさわしいタイミングで祥子が言った。
「今年もつい二週間前に。あたし、こんなだから言いたいことズケズケ言うし。それで相手のプライドを傷付けちゃうみたいです」
真直ぐ前を見て話す祥子の視線の先を、哲夫は何の気なしに追いかけた。向かいの歩道を一組の男女が歩いていた。腕を組み、溢れんばかりに幸せそうな笑顔を振りまきながら歩く二人。祥子はその姿を凝視している。その眼差しを横目に、哲夫は一つ大きなくしゃみをした。
「なあ高洲、お茶、買ってきて」
「は?今ですか?」
「そう。暖かいやつな」
「はい。行ってきます」
珍しく素直に祥子はその場を離れた。彼女の背中に視線を送る。少し行ったところにコンビニがあるからそこで買えばいい。そのとき自分の瞳が涙で濡れているのに気が付くだろう。すぐに戻る必要はない。気持ちが落ち着いてからでも充分間に合う。
哲夫は大きく息を吐く。目の前を多くの人々が行き交っていた。綺麗に包装された箱を大事そうに抱えている男性、スマートフォン片手に待ち合わせに遅れることを言い訳している女性、肩を組んでクリスマスソングを歌っているサラリーマン二人組。誰もクリスマスケーキには見向きもしない。哲夫はこっそり欠伸をかみ殺す。
 
……あの、このケーキ、一つください。
 
その声に自分の立場を思い出した。ポリエチレン製の白い袋を取り出し、持ったときにバランスが崩れないよう丁寧に入れた。
「ありがとうございます。……え?」
驚きの余り、哲夫は手にした箱を落としそうになった。視界に入ったものを理解するのに時間がかかる。取り乱しそうになる気持ちを何とかなだめ、ようやく言葉を絞り出した。
「……美冬」
「良かった。憶えててくれてた」
「……」
「元気だった?」
「ああ。……そっちは?」
「何とかやってる」
哲夫の目の前に、かつて恋人だった柏木美冬が立っていた。薄手の白いセーターにデニム、そしてベージュのフェイクムートンコート。それは哲夫の記憶の中にある柏木美冬そのものだった。
「どうして、ここに?」
「さっき見かけたから。一人でいるとこ」
「そう」
「それに、クリスマスだし」
「え?」
「奇跡みたいに思いがけないことが起こる日だから。今日は」
確かに、柏木美冬と向き合っているこの現実は、哲夫にとって奇跡そのものだった。何か言葉を探すも、平凡な相槌を打つだけで上手くその後を紡げず、もどかしさに哲夫は内心地団太を踏んだ。
美冬は静かに微笑んでいる。その懐かしさに導かれて、哲夫は照れたように小さくうなずいた。これが夢なら覚めないで欲しい。哲夫は柄にもなくそんなことを考えていた。
 
「やっぱり寒いね。あたしでも凍えそう」
美冬が大きく深呼吸をする。時折小刻みに足踏みをして寒さを紛らわせていたが、それもそろそろ限界なのかもしれなかった。
「こっちに来たら。ストーブがあるし」
「でも」
「かなりちっちゃいんだけど。ないよりはましだと思うよ」
美冬は少しだけ考えるしぐさを見せた後、哲夫の横に歩を進めた。
「本当だ。さっきよりも全然いい」
そう言って息を吹きかける彼女の指は、白くしなやかで美しかった。
「ん?どうかした?」
「別に。まだちょっとびっくりしてる」
「そうだよね」
「十年か」
「うん。十年ぶり」
「いつまでこっちに?」
「そう長くはいられないと思う」
「向こうではどう?」
「同じようで全然違う。やっぱりこっちの方がいいよ」
それから二人は時間の流れを捉えようとするかのように黙った。お互いの沈黙の隙間は街の喧騒が静かに埋めた。
 
*****
 
 ねえ、何がいい?
 
 何がって?
 
 哲ちゃんの誕生日プレゼント。
 欲しいもの教えてよ。
 
 ああ、考えてなかった。
 
 記念すべき三十歳の節目だよ。ちゃんと考えて。
 
 ……。
 
 本当にないの?だったら、私が決めるからね。
 前に欲しいって哲ちゃんが 言ってたもの。それにする。
 
 そんなのあったっけ?
 
 あったよ。私は覚えてるもん。きっと哲ちゃんも気に入ると思う。
 楽しみにしててね。
 それで、どう?三十代になるって、どんな気持ち?
 今までとなんか違う……?
 
*****
 
あれから十年の月日が流れ、哲夫は下腹部のたるみや頭髪の薄さが気になる立派な中年になった。それに引き換え、美冬は相変わらず美しかった。張りのある肌も、長く艶やかな髪も、しっとりと潤んだ瞳も、あの頃と何も変わらず哲夫の横にいた。
「哲ちゃん、今は幸せ?」
少しためらった後、小さく首を横に振る。
この十年、哲夫は心に巣食う渇きを抱えながら暮らしてきた。結婚したときや娘が生まれたときでさえも、その渇きはずっと哲夫の心に居座り続け、これではいけないと思いつつ、しかし時折さざ波のように押し寄せる如何ともしがたい負の感情にまとわりつかれ、それを表に出さないよう自分なりに努力をしつつも、いつもそれは実が熟す前に枝から落ち、地面に打ち付けられて湿り気のある鈍い破裂音を立て、そういったことが何度も繰り返されていくうちに、夫婦間に埋めがたい溝が徐々に刻まれていった。
私たち、一緒になるべきじゃなかったのかもしれないね。あの日、そう言い残して妻は娘を連れて出て行った。哲夫の分の洗濯物がきちんと畳まれていた。哲夫はただソファに座ってじっとしていた。家族なんてあっけなく終わるものだな。日が暮れて夜も深くなった頃、消え入りそうな声でそう独り言ちた。
 
「この辺もずいぶん変わったね。駅前だって、こんなに賑やかだし」
美冬の声に哲夫は目の前の現実に引き戻される。変化したのはこの辺だけではない。市電がループ化されたり、札幌駅と大通りを地下で結ぶ地下歩行空間が出来たり、すすきのにあった映画館がアミューズメント施設になったり、若者に人気の海外ファッションブランドが撤退したり、ここ最近でもそこかしこに変化がある。
「そっか。そうだよね、十年だもんね」
美冬の呟きはどことなく寂しそうだ。
しかし変わっていないものもある。哲夫は目の前を指差した。駅前通りの中央分離帯に植えられた春楡の木々に、無数のイルミネーションが輝いていた。その光の帯はすすきの方向に向かって伸び、幻想的にそして美しく通りを彩っていた。
 
*****
 
 ホワイトイルミネーションか。よく見に行ったよね。
 いつも私がせがんでいたんだと思う。
 どっちかって言うと、哲ちゃんは出不精だったし。
 でもなんだかんだ言っていつも哲ちゃんが私よりはしゃいでたんだよ。
 子どもみたいに気に入ったものには何度も足を運んで。
 そうだって。絶対にそう。
 あの光を見てるとね、どこか心が暖かくなるの。
 きっと集まった人々の気持ちが灯っているからなんだと思う。
 カップルで見に行くと別れるなんてジンクスが高校生の頃はあったよね。
 今はどうなんだろう。
 思い出した。
 哲ちゃんが財布をどこかに置き忘れたってことがあったよね。
 それで大通り公園を何往復もして、立ち寄った場所に戻って。
 哲ちゃん、すごく早足でさ、私、ついていくのが大変だった。
 結局はお土産を売っている店に忘れたのを店員さんが保管してくれてて。 
 あのときの哲ちゃん、怒ったような恥ずかしいような顔してた。
 今でもはっきり憶えてるよ……。
 
*****
 
どんなに時間が流れようとも、哲夫の中で美冬の存在は単なる過去の出来事にはなり得なかった。いつまでも生々しい状態のまま、身体の奥底に存在していた。肉体の一部になってしまっているとも言えた。だからこそ哲夫は戸惑っていた。この状況でどこまで踏み込んだらいいのか、その匙加減がわからずにいた。それは二人の身に突然訪れた、十年前の余りにも予想し得ない別れのせいだった。
 
二人にとって、この十年の始まりの日。
それは青空が広がっていた冬の日。

哲夫は北海道庁旧本庁舎、通称「赤レンガ」の前で美冬を待っていた。哲夫が自分の誕生日にここで待ち合わせをしたいと提案したのだ。いつもの場所でいつものように待ち合わせるよりは、特別感が出ていいのではないか、そんな小さな理由からだった。
美冬からは少し遅れると事前に連絡があった。観光客に混じって、このままこの辺をぶらつきながら待つことにした。
一組の家族が哲夫の目に留まった。両親と三歳くらいの男の子だ。漏れ聞こえる言葉の響きから関西辺りからきた親子のようだ。男の子は粉雪が珍しいのだろう、両手で雪をすくっては空中に何度も撒き散らして遊んでいた。粉雪はすぐ風に乗り、きらきらと輝く。その度に親子三人は歓声を上げた。
哲夫はいつの間にか自分と美冬の姿をその家族に重ねていた。そうなるのも悪くないと思った。遠くで救急車のサイレンが聞こえた。
「結婚、か」
それは誰にも届かない小さな声だったが、哲夫の胸の内で大きく響いた。
そのとき、哲夫は自分の横を何かが通り過ぎたような気がした。実体は乏しかったが、比例して存在感は大きく、思わず哲夫は歩みを止めた。振り返る。三メートル程離れた場所に、小さな無数の光が集まってできた球体がふわふわと浮かんでいた。バレーボールぐらいの大きさで、近付くでもなく、遠ざかるでもなく、ゆっくりと空中を漂っている。
どのくらいそうしていただろう、球体は突然糸が切れた人形のように落下し、雪の地面に着く寸前、光と共にその姿を消した。
哲夫はしばらく球体があった場所を眺めていた。何故か視線をそらすことが出来なかった。冷たい風が哲夫の頬をかすめた。
赤レンガの周辺にはもう誰もいなかった。
救急車のサイレンは、いつの間にか聞こえなくなっていた。
 
*****
 
 あの日も今日みたいに寒かった。
 道路も凍ってツルツルだったし。
 私、少し焦ってたんだよね。
 哲ちゃんとの待ち合わせ、大分遅れていたから。
 
 何があったの?
 
 横断歩道、青信号が点滅してたから、急いで渡ろうとしたの。
 そのとき凍結した路面をスリップした車が突っ込んできて。
 無理しなきゃよかったんだよね。
 次の信号まで待てば、あんなことにはならなかったのにね。
 
 そんなことないよ。
 俺があんな場所で待ち合わせしようって言わなければ。
 
 ううん、哲ちゃんは少しくらい遅れたって怒る人じゃない。
 そんなこと、ずっと前から知ってたのに。
 
 ……。
 
 何もかも一瞬だった。
 何もかも……、一瞬で終わった。
 
*****
 
二つの想いは十年という時間の波間を漂い続け、やがて後悔という形に変化し、お互いを強く求め続けたその果てにこの奇跡へと辿り着いた。このことは二人にとってどんな意味を成すのか。この状況においても、哲夫は答えを見いだせていない。
何度目かの沈黙が二人を包んだ。言葉は余りにも無力だった。何か発した瞬間にこの場がたちまち霧散し、跡形もなくなってしまうような気がした。
そのとき、美冬がポケットから小箱を取り出した。赤と白のストライプ柄の包装紙にくるまれ、緑色のリボンがあしらわれていたその小箱を、美冬は無言で差し出した。
哲夫は両手で包むように受け取る。指先が美冬の手のひらに軽く触れた。驚くほど冷たかったのは寒さのせいだけではなかった。
かじかんだ指先をどうにかなだめつつ、包装紙をはがし、箱を開ける。
「哲ちゃんが欲しいって言ってたから」
「……」
「本当はあの日に渡したかったんだけど」
箱の中にあったのは腕時計だった。濃い茶色の牛革ベルトに、ギリシャ文字の数字が円状に並んだ文字盤。一つずつ確かめるようにきっちりと動く秒針。シンプルなデザインでありながら普遍的な香りを醸し出し、哲夫の視線を捉えて離さなかった。
「ずっと持ってたの。心残りだったから」
改めて見ると、包装紙の端が破れていたり、リボンは色が多少くすんだりいたりと、こんな所にも時の流れが色濃く蓄積されている。
「ねえ、つけてみて」
哲夫はぎこちなく腕時計を右手首に巻き付けた。固いベルトがまだ腕に馴染まない。
「どうかな」
「似合う。凄く似合うよ」
思い出した。確かにカタログか何かを見ながら、これがいいと言ったことがあった。しかし本気で欲しいと思っていたわけではなかった。まだ自分には不釣り合いだと感じていたからだ。だから今の今まですっかりそのことは忘れていた。あのとき美冬がこれを用意していたなんて夢にも思わなかった。
「良かった。渡すのに十年かかった」
気が付けば哲夫はこの腕時計が似合うべき年齢になっていた。しかし肝心の美冬がこの世にはいない。何という皮肉だろう。これを運命と片付けてしまうのは余りにも残酷ではないか。
「それじゃ、そろそろ行くね」
その一言に哲夫は激しく動揺した
「余り長くいると消えちゃうから。それこそどっちにもいられなくなる」
そこで初めて美冬の身体が心なしか薄くなっていることに気がついた。目を凝らせば反対側の様子がうっすらと透けて見えそうだ。どっちにもいられなくなるという美冬の言葉が、現実味を伴って哲夫に迫った。
心の準備をする間もないまま、奇跡は終わろうとしている。哲夫は唇を噛み締める。どんな言葉を返せというのだ。言葉は時として無力であり、刃物のように心を切り刻む。傷口から溢れ出る血液は、今日降った雪を赤く染めるだろう。
こんなに辛いなら会わなければよかった。
こんなに哀しいなら出会わなければよかった。哲夫の目から押し出されるように涙がこぼれた。こんなときでも感情の雫は温かかった。生きている証として、その涙は確かな温度を伴いながら哲夫の頬を伝った。
このまま二度も美冬を失いたくない。彼女の手を取って、失われた十年間を取り戻したい。空虚な願いでもいい。無茶苦茶だと思われてもいい。この瞬間を永遠に転化さえできればもう何も望まない。哲夫は激しくうねり続ける感情の中で願った。
「元気でね、哲ちゃん」
「……」
「私の最後の恋の相手が哲ちゃんで本当に良かった」
「……」
「哲ちゃん、聞いてる?」
「……」
「お願い、何か言って」
美冬の瞳にも涙が光っていた。宝石のように美しい涙だった。言いたくても喉に何かがつかえている。必死に思考を巡らせて哲夫は彼女に直接伝えられる最後の言葉を探した。
 
*****
 
 また十年後な。
 
 え?
 
 そのとき、またここで会おう。
 俺さ、今よりも幸せになってるから。
 約束するよ。
 
 本当に?
 
 ああ。本当に。
 
 でも十年後でしょ?
 私はいいけど、哲ちゃんはもっとおじさんになってるんだよ。
 それってショックじゃない?
 
 何だよそれ。
 
 ……それじゃ、本当に行く。
 
 うん。
 
 身体に気をつけてね。
 ご飯、ちゃんと食べてね。
 酔っ払ってソファで寝ちゃだめよ。
 仕事、無理しないで。
 いつまでも若くないんだから。
 
 わかってるよ。
 
 哲ちゃん、会えてうれしかった。
 最後にこれだけは言わせて。
 
 あのね、私……
 
*****
 
派手なクラクションが美冬の最後の言葉を遮った。美冬の身体はやがて外の光を透過させ、冬の札幌の空気に溶け込んだ。
「美冬……。美冬?」
哲夫の声が冷気に吸い込まれる。
「また、いなくなっちゃった」
駅前通りは賑わいを絶やさない。つい先ほどまでの出来事が現実だったのかどうかさえ疑いそうになり、大きく息を吐いた。背後のビルのガラスに自分が映っていた。そこにいたのは、確かにあの頃より年齢を重ねた自分の姿だった。

「ほらね、サボってると思ったんですよ」
その声に振り返ると、緑茶の入った缶を二本持った高洲祥子が立っていた。
「これでいいですよね」
「……」
「片桐さん?」
「ああ。ありがとう」
哲夫は缶を受け取り、一口飲んだ。緑茶の温かさが染み入った。
「片桐さん、聞いてください」
「どうした?」
「ついさっき元彼に会ったんですよ。向こう側を女連れで歩いてたのを偶然見つけて」
「それで?」
「どうでもいいって言えばいいんですけど、それがいけ好かない女で。あんなのに負けたのかって思うと妙に悔しくて、一言文句でも言わないと収まらなくって」
「ええ?」
「でも結局、何も言いませんでした。とりあえず元彼を引っぱたいて、それだけです。……結構すっきりするものですね。これで次の道が開けるかもって感じです」
一気に喋った後、祥子は緑茶を三口ほど飲み、そして屈託のない笑顔を見せた。薄皮が一枚めくれ、今まで気が付かなかったくすみのようなものが消えていた。
「あれ、片桐さん、その腕時計。そんなのしてましたっけ?」
「ああこれ?……してたよ、十年前から」
革ベルトの感触を確かめる。この腕時計こそが哲夫と美冬の先ほどまでの現実を示していた。今もまだ残っている足跡よりも、あのとき指先に感じた冷たさよりも、ある種の質を持ってそこにあった。
秒針が規則正しく時を刻むたびに新しい十年が構築されていく。哀しみを背負うのはもう終わりだ。全てを受け入れたうえで、これからは今までとは異なる時間の中で生きよう。それは美冬を忘れることではない。
 
 何度も起こらないのが奇跡なんだから。
 約束よ。
 十年後、ちゃんと幸せになっててね。
 
美冬の声が聞こえた。もう哲夫にはその姿は見えないが、きっと近くにいてくれるのだろう。
雲に覆われていた空がほんの少しだけ素顔を見せ、そこから月の光が差し込んだ。明日はいい天気になりそうだ。
「なあ、この後は空いてるんだろ。どうせ振られたんだから」
「悪かったですね」
「さっさと売って飲みにでも行くか。失恋の愚痴でも聞いてやるよ」
「おごりだったらいいですけど」
「傷心の奴に金は払わせないって。ほら、しっかり声出せよ」
「はーい」
 
いらっしゃいませ。
クリスマスケーキは如何ですか?
美味しいクリスマスケーキですよ。
お土産にどうぞ。
 
今日が終わればこの辺りも一気に正月の雰囲気に様変わりする。
来るべき一年はどうなるのだろう。
そんなありきたりなことを考えながら、哲夫は声を張り上げた。                   
(了)

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