見出し画像

静寂さとテンション

2019年始まって、
”始まりの2週間”が終わろうとしている

僕の始まりの2週間

今、振り返ってみると、
動いた事ややった事が結構、沢山あって
「詰まっていた」「稼働してきた」ように感じる。

思えば、

去年とは、
違うライフミッション、広がった視野、異なる体の使い方
を目指して

それを手に入れられる環境を形にしようと
必死になって頑張っていたように思う。

そう、僕は
新たなテーマを前に
緊張していたのだ。

静寂という体験


無自覚に緊張していた自分は、今週、
自分の緊張感を人に押し付け、ちょっと妻と小競り合いがあったりして
それを機に

「あー自分、ちょっとテンションを張りすぎているのかもなー」
なんて、少しずつ自分の緊張を感じられるようになってきたいた。

そして、今日、突然、
静寂という体験が訪れたのだ。

きっかけは、北鎌倉にあるお茶室「寂丸」での対話。

寂丸は、親友が作ったセルフビルドの茶室で
竹林の麓にある。

冬という季節も大きく影響しているのだろう。

書いている今も、思い出した静けさがあったのだが、
去年の冬、山形県の出羽三山の冬山、しかもの雪の降った後
まだ誰も人が足を踏み入れてない森に入ったことがあった。

その時の音がないもないかのような
静逸さを思い出した。

静寂とは何だろうか。
静寂は、音がない訳ではない。

現実の世界では、わずかに雪が落ちる音や、
笹が風邪でこすれる音、鳥が鳴く音などがしているだろう。

静寂なのは、意識なのであり、心であり、身体の中の体験だ。
外界で音が何かしても、反応せず、ただただ、深く在る。

ひたすらに自分に深く潜っていって、
落ち着いた状態に至ると、声を感じなくなる。
それは頭の声も、心の声も、身体の声も。

ただ、深く在る。それが静寂という体験なのだと思った。

静寂の後だからこそ、感じられる機微


静寂を体験すると、聞こえる音に敏感になる。

今日の午後は、
緊張していた状態では、見過ごしていたであろう、
自分の内側や、人、世界の微妙な機微を感じられた。

その機微を尊重して、過ごしてみると、
「今までここに道があったのと見過ごしていた道に気づけたり」
「自分の家にあった茶碗の窯元の所在が分かったり」
「欲しいものは、すでに今の生活にあったと気づけたり」

大切なものは、
既に自分の中や、身近にあったんだ
といった気づきを得ることができた。

緊張の根っこには何があるのか


今の自分から緊張をしていた時の自分を見てみる。

もしかしたら、緊張の根っこには、不安があったのかもしれない。

そして不安は、自分の中にあるものや、身近なものが見えてなかったから
生まれたのかもしれない。

そうやって見てみると、
「冷静に身辺を見ろよ」と思ってしまうが、

意外と、自分の中にあるものや、身近にあるものといった
「何があるのか」といった今ここにあるものが見えてなくて、

今ここにはない、だから「どこか未来に」向けて
僕らは頑張ってしまうのかもしれない。

雑音が多い時代だから、
今ここにない「どこか未来に」向けて、
緊張して、頑張って生きるのもしょうがないけど、

静寂があれば、
今ここにあるものに気づけて
満たされた感覚で生きていけるなぁと^^

静寂さが欲しいなぁと思った人は、
是非、静寂の寂丸にお越しください^^


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?