誰にも理解できない事、自分にしかできない事って、実は一番難しいって話(当たり前を疑う力)

私も芸歴が20年を超えまして、
まだまだアート界では若手?
そんなこたぁ〜ないwww
まぁ色々と経験してきて、
一番思うことが、
誰にも理解できない事、
自分にしかできない事、
それらを行う事が、
実は非常に難しいという現実です。

例えばアートだったら、
一般の人なら、
奇抜で奇天烈な事をしていれば、
なんとなくアーティストだって、
イメージを持つわけです。

私はそんなステレオタイプな、
アーティストのイメージを使って、
最初は自分がアーティストである、
その様な認識を多くの人に、
プレゼンテーションしたんですね。

平面作品であれば、
ちょっとピカソっぽい絵を描いたり、
村上隆とか奈良美智っぽい絵を描いたり、
具体美術っぽい身体性を使った、
ボディーペイントをしたりwww

つまり私自身をアーティストっぽいと、
他人に思わせるという戦略で、
その様な作品を創っていました、
今も私のメインビジュアルは、
裸の女性の野外でのボディペイントですが、
これもあえて使っています。

それは一般の人が、
ステレオタイプに、
私のことをアーティストっぽい、
と認識するのに最適だからですwww

そして、
これは冒頭に記述した、
誰にも理解できない事、自分にしかできない事
とは全く正反対の、
誰でも理解できる事、誰にでもできる事なのです。

アートっぽい事をするのは、
私からすると誰でもできる事です。

私がこの様なアートっぽい事をあえてするのは、
私が本当に創造したいものとの、
キャズムを埋める事を目的としています。

私が本質的にアートを創造しているのは、
インターネット空間です。
しかしそれをアートとして認識する素地は、
全くありません。

その上でアートとしての連続性、文脈性を、
どう生み出していくのか、
その様な事も私の役割であると考えています。

先にも記述しましたが、
アートっぽい事をするのは簡単です。
それは歴史的にも、連続性や文脈性が、
すでに与えられているからです。

一つ例にあげると、
近年マンガ的なビジュアル作品が増えています。
これは完全に村上隆が作ったアートフォームで、
村上隆が西洋アートへの連続性や文脈性を、
しっかりと確立したからです。

ここから何が言えるかというと、
今アートとして、
誰にも理解できない、
自分にしかできない、
その様なアートというものは、
既存のアートの連続性や文脈性に、
乗っていない、沿っていない、
その様なものになります。
それは言ってみれば、

アートではないものなのです。

つまりはっきりと言ってしまえば、
私が「ウェブアート宣言」、
「量子論美術宣言」、
「デリバティブアート宣言」、
などを発表していますが、

これらは、
アートではないものなのです。

もちろん私は、
この様な言説や文章をアートとして、
定義していますが、
それもまた、
アートではないものなのです。

例えばビジネスや科学の分野でも同じですが、
そのジャンルの連続性や文脈性から離れた所に、
突如何かが現れた時に、
それはビジネスと呼べない、
科学と呼べない、
その様に認識されます。

しかし世界はその様な、
誰にも理解されないものにより、
どんどんと前に進んできた事も、
間違いありません。
それはある種の、

「コペルニクス的転回」

なのです。

つまり私の様なやり方は、
既存のやり方を踏襲しないわけですから、
理解されることはありません、
その意味で、
この様な企ては非常に難しいのです。

しかし、
この世界を逆説的に考えた時に、
「自分にしかできない事」というのは、
この様な既存の連続性、文脈性を超えた、
ある種カオスにこそ、
唯一、
「自分にしかできない事」があるのだと、
私は確信しています。

それの根幹となる考え方を皆様に、
お教えするとすれば、
それは、

「当たり前を疑う力」です。

当たり前というのは、
既存の連続性や文脈性のことです。

今後の世界の動向は、
「不確実」「分散」「多様」「カオス」、
それが重要になってきます。

そしてそれらから、
新しい「価値」が創造されてきます。

ぜひ皆様も、
その様な事を意識して、
これからの人生を生きていってください。

美学者母

続きをみるには

残り 0字

¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?