私が正しいのだと言う孤独と勇気

「“猛獣”教員が待っている」ゴリラ研究の京大・山極総長が新入生にメッセージ〈週刊朝日〉

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160318-00000003-sasahi-life

もし自らが世界最先端で誰も考えていない事をしていたら。

自らを理解できる者は自らしかいない。

そんな事当たり前だと簡単に思う人も多いかもしれない。

しかしそれは非常に勇気がいる事であって、

そんなに簡単にできる事ではないのだ。

私は小さい頃から「信用」する事をしなかった、

それはいわゆる「人間不信」のような類のものではない。

小学校で渡された教科書や先生が言う言葉を、

常に懐疑的に捉え私自身の頭で考えると言う事を、

常に心がけてきたのである。

そうやって40年近く生きてきた、

それは非常に苦痛に満ちた刹那の連続であった。

そこそこ心が安定してきたのはここ最近の事で、

常に自らの認識がとんでもなくおかしいのではないか。

また自らの認識が本当に正しいのだろうか。

そのような恐怖にも似た感情の波がとめどなく襲ってくるのであった。

結局は最後に「自分」を信用してあげれるのは「自分」しかいないのだ。

しかしそれはただ単なるナルシズム的自己愛に溺れるのではなく、

常に自己に対する批判と反省の反復にのみ自己の信用は初めて生まれるのである。

話を始めに戻すと、

もし世界最先端の研究や開発、誰も考えていないような事をするときに。

そこに相対的評価に救いを求めるならば、

それはもう既に世界最先端でも無く、誰も考えていない事でも無い。

その領域においては、

誰にも見向きもされない事や全く評価を受けない事が唯一のブレイクスルーなのだ。

現在においての認識に及ばない事を創造するならばそれは必然であって、

それは事象の地平の向こうであるわけであるから、

それは理論的にも合理性のある解なのである。

「とにかく突き抜けろ」

「孤独に立ち向かう勇気を持て」

創造者が創造者たる所以は、

「事象の地平」を少しでも押しやり、

そして「認識」の領域を少しでも広げる事なのだから。

創造者よ、

「評価されない価値」を強く信じて「孤独に立ち向かう勇気」を持とう。

美学者母

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