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象徴的日記 2017.07.04

『彼自身によるロランバルト』という本がある。この本は、自分の思想や価値観、評価がバラバラに非連続で並べられるという構成からできている。そこには時間的にも、意味的にも連続しているものはない。ただ分割された断片の集積である。構成から考えるに、バルトは自分のことを非連続で、バラバラの存在だと思っていただろう。このことは私もよく理解できる。人間というのは、時と場合によって態度が変わるし、それに応じて思考も変わるから不安定な存在だ。一貫していない。ただ、それが機械ではない、人間の特徴である。
この前提からブランディングについて考えると、ブランディングというのは矛盾した作業であることに気づく。おそらく大半の人は理想的なブランディングを企業の思想や特徴を適切に表現し、消費者や社員や取引先に伝えるものだと思っていると思う。しかし、企業というのは、社員の集合体であり、社員は人間である。当然のように全て同じ思想や趣味を持っているわけではない。それどころか、バルトからもわかるように、人間は自分という存在の中でさえ、非連続でバラバラな存在である。
そうであれば、ブランディングという統一させようとする動きに必ず含まれるのは虚構である。本来、バラバラのものをまとめあげてできたものは表面がいくら美しく綺麗にまとめられていても、構造的には虚構を回避することはできない。
そして、私たちはおそらく無意識のうちにその虚構を感じ取っている。「お客様を第一に」というコピーを見て、本当にそれを真に受け取る人は誰もいない。それよりも、目の前で働いている人の勤勉さや怠慢さで評価するのは、自分の日常を考えてもよくわかる。言葉やデザインが個人の人間性に勝てるわけがない。
しかし、このような状況においてでさえ、未だに多くの企業の中では当たり前のように「新しいブランディングを考えたい」、「これはうちのブランドらしいデザインではない」などと話し合っている。私が一番辛いのは、それが虚構の中で正解を求めているだけであり、虚構ゆえに結局何もその中には存在しないということである。そして、その無の空間が瞬間瞬間に生まれる個人の発想や個性を殺してしまうことである。
では、私たちはブランディングというものを捨て去るべきなのか?それはやはり極端な意見だろう。誰もが芸術家を気取り、無限的に発散しては、収集がつかなくなってしまう。では、どうするべきなのか?おそらく集団としての最低限のルールは必要だろう。そして、その最低限のルールこそがブランディングであるべきなのだ。ブランディングとは、限りなく少なくあるべきである。制限を作るべきではないのである。もちろん、色や文体や写真のトーンを決めるのではない。それよりも、もっと根底にあるもの、例えば「人に優しくしましょう」というくらいの絶対的なルールだけあれば、それが立派なブランディングにならないだろうか。そのルールさえ守れば、そのブランドらしさなどという曖昧なものは自然と表れてくる。それがブランディングであり、企業であり、人間というものである。