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ヴィシー留学記 3日目後編(2017.2.20)

午後も3時半まで授業があった。その後、学校が主催するアクティビティ「ヴィシー散策(visite de Vichy)」に参加した。

参加したのは20人近かったが、そのうちの15人ほどは日本人だった。北星大学の学生がほとんどで、高野先生も同伴されていた。彼らは常に日本語で話していた。僕は出来る限り日本語で話したくないので、ベトナム人のヴァン、ドイツ人のアルベルタ、それから日本人の琴美とフランス語で話した。

ヴァンは小柄で真面目な青年だった。勉強熱心で、さっそく図書館で本を借りていた。カトリックの司祭になるのが夢だという。日本語もかつて勉強したことがあるが、フランス語より難しいと言っていた。

アルベルタは180cm近くある長身のマダムだった。年は40近くに見え、落ち着きと礼節と活力を兼ね揃えていた。赤いメガネをかけ、グリーンのスポーツウェアを着ていた。

琴美は鋭い目つきをする19歳の女子大生だった。大学一年生で文法を勉強するのが好きらしい。彼女は日本人が多いことに少し腹を立てていた。僕らは出来る限りフランス語で話そうと言った。

まずフランス人のガイドが「ヴィシーの特徴として何が思いつきますか?」と聞いた。ある人が「水(de l'eau)」と言った。ヴィシーは温泉で有名な街だ。ただ温泉と言っても飲むのがメインで、浸かる習慣はフランスにはない。

まず僕らはCelestinの水汲み場に行った。ここでは温泉水を飲むことができる。街の人もペットボトルをもって、水を汲みに来ていた。腸の消化を良くするだけでなく、美容やリュウマチにも効くという。ちなみに、あのココシャネルも若き日に一年間ヴィシーに滞在し、美への意識を洗練させたようだ。

飲んでみると、匂いはほとんどないものの、とても塩辛くて飲みやすいとは言えない。みな顔をしかめ、健康に良いとは思えないと騒いでいた。現地の人が「しょっぱいかい?(Salé?)」と言って、鼻で笑っていた。

ガイドは温泉の歴史や効能を丁寧に説明してくれたが、当然それはフランス語でなされた。僕は大概のことを理解することができた。しかし、北星大学の生徒には難しいと思われた高野先生は全て通訳してくださった。琴美はむすっとして「ここはフランスでしょ?どうして日本語を聞かなきゃいけないの?」と言っていた。ヴァンとアルベルタは苦笑いだった。僕は彼らに「すまない(Désolé)」と誰かの代わりに謝った。

昨日歩いた公園を抜けると、大きなモニュメントに案内された。

ここにはフランスの象徴「勝利の女神」が戦争において兵士を導く様が表現されている。モニュメントの上には、カエサルを思わせるローマ風の銅像が凛々しく載っていた。しかし、このモニュメントの周りは背の高い木が植えられているために、現在は主にカラスの住処になっていた。夕暮れ時だったので、彼らはそれぞれに帰宅を促すように、大きな声で泣いていた。モニュメントの周りは糞だらけで、僕らの他には誰もいなかった。

次に見たのは立派な建築群だった。オペラ座、カジノ、富豪の別荘。中にはナポレオン三世の妻が住んでいた家もあった。ヴィシーはナポレオン3世の再開発によって発展した町だ。ナポレオン三世と言えば、普仏戦争で敗北し、プロイセンの捕虜になった残念な君主として、日本の教科書には描かれている。しかし、実際にこのような美しい町を作ったのは、その残念な君主だ。実際に、彼のおかげで発展した町は、19世紀の世界の大富豪を魅了し、ヴィシーの町には数々の別荘が建てられた。それゆえ、この町では世界の様々な建築様式を見ることができる。

以上、あくまでもガイドの説明をかいつまんでまとめた。実際のガイドの説明はもっと詳細で、細かすぎるほどで、散策が終わったのは開始から2時間後だった。少しずつ町は暗くなり、雨が降り出していた。

僕は途中から足に張りを、腰に痛みを感じていた。また、ベトナム人のヴァンはステイ先のファミリーに連絡していなかったことを心配し、途中で帰ってしまった。ドイツ人のアルベルタとは途中まで、自国の宗教や歴史などについて話していたが、ある時からは何も話さなくなった。琴美とは少しづつ日本語を使うようになってしまった。

ずっと通訳をなさっていた高野先生もぐったりと疲れていて、途中からは「重要なこと以外は省略します」とおっしゃっていた。僕はある時からフランス語の説明ではなく、高野先生の日本語に頼るようになった。やはり、何事も時間をかけすぎるのは良くない。

こうして僕らは解散し、それぞれの帰路に着いた。部屋に着くと、僕はベッドに倒れ込んだ。長い一日だった。天井を見上げて、目を閉じた。あっという間に眠ってしまった。

起きたら、辺りは真暗で真夜中だった。