北大祭③

 覚悟を決めたと言っても、特に何をすることもなく、月日は人を待たず、北大祭の足音だけが日増しに大きくなっていった。クラスの皆は頻繁に集まり、焼きそばの作り方の練習や材料の買い出しに励んでいたが、僕はそれらの手伝いには参加しなかった。彼らは彼らなりの方法で着実に前進している。あえて異物を混入する必要はない。そう僕は考えた。物理の力学の法則と同じだ。一度、力を与えた物体は摩擦やエネルギーの消失がない限り、前進し続ける。僕は仕事の経験から、彼らがそのままの速度で前進したら、おそらく早々に壁に当たることは容易に予想できた。けれども、あえて彼らが壁に当たるまで助け舟は出さないようにしようと思っていた。無礼をしないことと助け舟を出さないことは別である。僕は彼らが壁にぶち当たって、何かしらの反発係数で跳ね返るのを期待していた。それが彼らの成長につながるはずだ。半分は親のように、半分は先輩のように、彼らを無言ながらに応援していたのだ。

 また、僕はシフトに入ることになってから、彼らのLINEの投稿にちゃんと目を通すようになった。さすがに彼らの投稿も北大祭が近づくにつれ、くだらないものから業務的な内容が増えていった。そして、北大祭の2日前に、リーダーのNさんがある投稿をした。

「当日の朝8時からのシフト、誰か変わってもらえませんか?実は前日、実行委員は前夜祭の集まりがあって、その集まりが終わるのが夜の2時なんです。もし起きれなかったら、皆に迷惑をかけるので、誰か空いている人がいれば変わってくれると助かります。」

 この投稿をNさんは夜に送っていたが、僕が見たのは翌朝だった。若者の多くはいつも遅くまで起きているため、深夜でもLINEのやり取りが行われるのが日常茶飯事だが、Nさんの投稿に関しては誰も返信をしていなかった。僕はその状況を起きたばかりのベッドの上で見た。

 最初は『なぜ誰も返信しないのだろう?』とぼんやりと思った。そして、一度、携帯を置いて、もう少し寝ようと思い、寝返りを打った。しかし、LINEの画面が残像のようにうっすらと残り、二度寝をすることができなかった。僕は少し考え始めた。『どうしてこの投稿に限って返信がないのだろう?・・・昨日に限って、みんな寝ていたのかな。そろそろ疲れ始めている頃だから、そうに違いないか・・・しかし、クラスは35人もいるのに、全員が全員寝ているなんてあるだろうか?』

 もう一度、携帯を取り上げて、Nさんが投稿した時間を見た。24時前・・・若者全員が寝ている時間じゃない。画面にはNさんの投稿だけが、捨てられた子犬のように、無慈悲に残っている。僕はその画面上で子犬が鳴いてこちらを見つめているように思えてきた。『ちなみに、自分は・・・手伝おうと思えば手伝える。朝8時だって自分にとっては苦ではない。けれど、ここで手をあげるのはどうだろう・・・早急すぎやしないか?今までだんまりを決め込んでおいて、突然、女子のレスキューに食いついたりしたら、あいつは女にだけ優しくして恩を売ろうとしてる、その裏には下心があるに違いない、全く下衆なオヤジだよと思われる・・・そんな的外れの非難はまっぴらご免だ・・ん?的外れ?・・・いや、俺だって心の奥底を全部CTスキャンしてもらったら、小さい腫瘍のような下心がひとつくらい見つかるかもしれないじゃないか・・・いや、そんなことはどうでもいい。なに、おそらくあと一時間もすれば、みんな起きて、誰かがNさんに優しい手を差し伸べるだろう・・・しかし、前夜祭の集まりって夜2時までって、なんて非常識な・・・』

 僕はこうして、しばし静観することに決めると、ベッドから起き上がって、いつものようにキッチンでコーヒーを淹れ始めた。脳にまだかかっている薄暗い霧を取り払って、しっかりと考えようと思った。だが、カフェインを摂取する前に、僕の脳は少しづつ明るさを取り戻し、ペーパードリップにお湯をゆっくり注いでいる際には、一つ重要なことが降りてきた。

『ん?ちょっと待てよ。もしかして、他の若者たちもその時間、別の仕事をしているんじゃないのか?』

 僕は急いで先日もらったシフト表を鞄から引っ張り出して確認した。僕の予想は見事に的中していた。およそ15人が8時から別の場所で仕事を割り振られていた。『なるほど、35人中15人はその時間に別の仕事があるということか・・・しかし、まだ20人は空いている・・・いや、だが、実際に積極的に活動しているのはほぼ空いていない15人だ・・・つまり、だんまりを決め込んでいる消極的な20人の中から誰かが手をあげなければいけないわけだ。』

 僕はコーヒーを飲んでから、またしばし考えた。『しかし、20人もいて、まだ誰も手をあげないとはずいぶんと若者は冷酷じゃないか・・・手伝えない15人だって、いつもなら「誰かお願いします!」と煽ってもいいと思うが・・・もしや、Nさんは嫌われているのか?・・・その可能性もないとはいえないな。彼女はなにせ真面目すぎるからな。厚かましい存在に思われているかもしれない。しかし、誰よりも頑張っているのは明らかだ。その彼女に対し、無視を決め込むなんて、友情も愛も有ったものじゃないな・・・まったく最近の若者は、普段、あれだけ仲良さそうにしておいて、重要な場面ではばっさりかい?ほんの少しの自己犠牲ですら君たちは払えないのかい?』僕はコーヒーが苦々しすぎて、チョコレートをひとかけら口に運んだ。甘さが少しだけ緊張を取り除く。『ああ!また俺はこんなことを考えて!まだ朝の9時じゃないか。彼らは寝ているんだよ。そうに違いない。だってまだ18歳そこそこだろ?俺がその頃は大抵昼まで寝ていたじゃないか・・・うん、もう少し様子を見よう。俺が今やるべきことは時間つぶしだ・・・しかし、何をするかな。今日はまだ時間がある。気を紛らわせなければならない、それが第一だ・・・やはりこういう時は読書しかない。風呂で読書だ。』

 こうして、僕は小さな風呂に足を折りまげて、モーパッサンの短編集を読み始めた。トワーヌ。けれど、その小説の内容はほとんど頭に入らず、5行読んでは4行戻るという次第だった。仕方なく、僕は早々に浴槽から出て、シャワーで長い髪を洗い始めた。

『もし、もしだ・・・自分がここで助け舟を出したとして、何か不利益を被ることがあるだろうか?・・・あるとしたら、さっき考えた極端な非難が持ち上がるくらいか・・・ということは、俺はまだそんな非難にびくびくしているということか・・・まったく、いったいどこまで自分を可愛がるつもりだい?若者が冷酷だとくだをまいていたが、一番冷酷なのは自分じゃないか?自分はそんなに大事なものなのかい?そこまで大事にするのなら、まずこの髪をばっさりと切って、大学なんて辞めて、ちゃんと真面目に働くべきじゃないか。誰からなんと言われようと関係ない。いつだったか、そう決めたじゃないか。この長い髪はその決意の象徴ではなかったか・・・うん・・・うん、もし、もしだ、この風呂を出て、NさんのLINEに誰からも返信がなければ、自分が手をあげよう、上げてしまおう・・・どうなったって構いやしないさ、もう後は野となれ山となれだ。』

 僕はやや興奮ぎみに風呂を出て、まだ濡れたままの体で携帯を覗きこんだ。LINEでは先ほどまでと変わらず、誰もNさんに返信をしていなかった。子犬はまだ拾われてないなかった。僕はよし!と意気込んでクラスのLINEに投稿することにした。

「自分でよければ、空いているので手伝います。みなさんよりは老人なので、朝も強いですから。情報共有だけしてもらえばNさんは来なくてもよいですよ。ゆっくり休んでいてください。」

 僕は投稿してから、やってしまったと一瞬の後悔を感じたが、Nさんからすぐに返信がきた。

「ありがとうございます。本当にありがとうございます。」

 僕は嬉しくなって、また返信をした。嬉しさは一ミリたりとも投稿に表れないようにした。

「何か自分に伝えておくことがあれば、文学の授業の際に伝えてください。」

「わかりました。ありがとうございます。」 

 こうしてNさんの代わりに僕はシフトに入ることになった。このやり取りに関して、多くの既読が着いたが、他のクラスのメンバーは一切、黙っていた。彼らが何を考えていたか、それを知る由はない。ただその時の僕は少し良いことをした生の充実感を久しぶりに感じていた。