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ヴィシー留学記 クレルモン・フェラン(2017.02.22)

ヴィシーに着いてから4日が過ぎた。相変わらず、夜と朝が繰り返し、過ぎ去っている。これは日本でも変わらない。いや、日本だけでなく、世界中のどこでも変わらないことだ。

水曜日の午後、またアクティヴィティでクレルモン・フェランという街を訪問した。ヴィシー散策と同様に、その参加者のほとんどは日本人で、ガイドの説明を高野先生が通訳するスタイルも変わらなかった。僕はフランスで日本語を使うことについて、もう何の抵抗感も感じなかった。日本語での会話は、自分にとっては良くないことだとはわかっている。それでも、環境に意志は抵抗できない。

クレルモン・フェランは大きな道路によって中心部が円状に囲まれている。道路には昔、要塞があったという。しかし、要塞は街が発展するにつれて邪魔になり、住民に壊されたそうだ。難航不落の要塞も時代のニーズに合わせて、このように姿を変えていく。

最初に僕らが訪れたのは、その要塞内の北東に位置するノートルダム・デュ・ポール(Notre-Dame du Port)という聖堂だった。この聖堂の前には、大きすぎも小さすぎもしない丁度良いサイズの十字架があった。観光客は教会の建築的な美しさを眺めるために、その十字架の横に座っていた。

外壁には中心にキリスト像がいて、彼を取り囲むように東方の博士たちが彫られていた。キリスト像の顔は、目や鼻がつぶされている。宗教戦争の時代に、偶像崇拝を否定したプロテスタントたちによって壊されたという。

聖堂の中にはパイプオルガンの荘厳な音楽が流れ、神聖な空気が漂っていた。暗闇の中でステンドグラスは光を受け、華やかに美しく輝いている。僕は上を向いて、ゆっくりと一周してから、聖母マリア像が置かれている地下に降りた。

地下のマリア像は黒かった。暗いのではない。彼女は黒かった。そのために人工的な照明が当てられ、暗闇の中に光が、光の中に黒いマリアがいた。

ガイドによると、黒い理由は二つ考えられるという。一つは素材である木材が劣化したこと、もう一つはマリア像の前にある蝋燭のススによる汚れだ。しかし、高野先生はそれよりも重大な理由が考えられるとおっしゃっていた。先生によると、マリア像は劣化したのではなく、最初から黒かったのだ。マリア像は元から黒い状態で誰かに崇拝されていたのである。

次に僕たちはヴィクトワール広場(Place de la Victoire)に向かった。広場には先ほどの聖堂よりも大きなカテドラルがある。このカテドラルはゴシック様式で建てられ、先端は剣のように尖っている。

またこの場所には、かつてのローマ教皇、ウルバヌス2世の彫像が立っている。1092年、この場所で彼は司祭を集め、歴史上初となる十字軍の決起を呼びかけた。キリスト教徒よ、聖地イェルサレムを取り返すのだ。彼は十字軍で活躍した兵士は必ず天上に行けるという概念を作り出した。かの有名なクレルモン公会議である。

そして、十字軍は聖地イェルサレムに向かい、多数のアラブ人を殺した。僕は以前にイスラム教徒が書いた本を読んだことがある。その本によると、十字軍においてキリスト教徒は平和に暮らしていたアラブ人の前に突然現れ、女子供を問わず次々に殺したという。彼らが(今のキリスト教徒は認めたくないであろうが)食人をしたという記録も残っている。

勝利の広場には、そのウルバヌス2世の像が立派に立っていた。彫像の背後には1本の長い飛行機雲が、あたかも勝利の狼煙をあげるように伸びていた。また、その雲は中世から現在まで伸びているようにも見えた。

幸いなことに今日のフランスはとても良い天気だった。明日も晴れるだろうか。パリでは多数の警官が警備に当たっているという。

その後、しばらくの間、自由行動になった。僕は喉が渇いていた。でもカフェで陽気に飲むことはできなかったので、ペットボトルのジュースを買って、喉に流し込んだ。特にすることもなかった。

バスに戻ると、1時間ほどでヴィシーに着いた。帰宅した時は20時を過ぎていた。僕は疲れて何もする気が起きなかった。日記を書くことも、勉強することもできなかった。本もうまく読めそうになかった。でも眠るわけにはいかない。仕方なく、携帯で取り止めのないことを調べていた。