今年の7月に娘が生まれた。女の子なのに、僕に瓜二つの顔をしている。

僕は妻の妊娠がわかるまで、子供が欲しいと思ったことは一度もなかった。いや、妊娠がわかってからも、誕生を待ち望んでいたわけではない。ただ、大きくなる妻のおなかをさすっているうちに、時間が経過してしまっただけだ。

僕は本質的に、妻に出会った時からずっと彼女に恋をしている。その深さは思っていたよりも深いようだ。だから、妻と一緒にいたいという海溝の狭間に、赤ちゃんが割り込んできた。数か月前の僕だったら、そう言うだろう。

少し話を脱線させようか。そういえば、僕はしばらく自分自身の文章を書くことから遠ざかっていた。二年間になる。書くことを見つけられなかった。

僕の文章はほとんどにおいて、主語が一人称だ。それは昔からずっと変わらない。僕はこの文章の中ですでに、何度「僕」と書いただろう。

時には三人称で書くこともある。が、それはその物語自体が僕のメタファーになっている。主語が何人称であっても、語っているのは常に「僕」だよ。

そんな風に長い間、生きてきた。だから、妻に恋をしていると言った時ですら、僕は主語が僕である。僕は彼女に僕のために○○する。

しかし、どうやら数か月前に産まれた娘は僕以上に「私」である。まるで自分が、自然の摂理だという感じだ。

だから、僕は少し生き方を軟化させた。これはある時から、少しずつ無意識の中で意識してきたことだ。一人称の幽閉。

そういえば、無私という言葉があった。仏教?キリスト教?キリスト教なら愛と何が違うのだろう。

一人称を幽閉すること、それは言い換えれば、愛を学ぶことである。ちょっと待て、そんなバカな結論があるものか。

あぁ、僕はこんな説教くさい文章を書くために筆を執ったのだろうか。それとも、書いているうちに、僕の身体が導き出した答えのか。いずれにせよ、つまらない書き手になったものだ。