続けられると、変わる。
仕事がこれなんだが、何のことにも言える。
勉強とか、趣味とか、勝負事とか、
ほんっとうに何でも良い。続けるだけ。
はっきり言って、ネットの情報に価値はない。
誰でもアクセスできて、情報共有のプロがいる。
そのプロもやはり、情報共有で積み上げたプロ集団である。
だからこそ、はっきり言って、
この記事自体にも然程の価値はない。
変わるのはいつも気持ち程度。
よく、辞める人がいる。
だが、それは賢い選択でもある。
なぜなら、物事の大半は意味がないからだ。
ただ、「なんとなく、、」「周りが嫌だから」
は、ちょっと違う。言い訳は自分を守るためなら最適であるが、進むためには最悪である。
逆に考える。
「意味のないことを繰り返すだけで、お金がもらえるなんて、ラッキーだとは思わないかい?」
若い子たちの苦しみはここにあると思う。
何かしらの、「意味」や「好き」を求めて、それらで飯を食いたいと思う。
それは、良い考え方だと思う。
しかし、「好き」は他の人も「好き」の可能性が高い。競争は果てしなくなる。
ただ、
「周りが嫌いだが、私は嫌いではない。」
は強力な武器となる。
もうちょっと掘り下げる。
「好き」を極める、仕事にするには、「嫌い」とぶつかる場面が起きる。
「これは面倒。」「これは考えるのには時間がかかりすぎる。」「結果が最短で生まれない。」
必ずと言って良いほど、ぶつかる。
ここで、皆が脱落する。当たり前。
世の中には、何億人ものサッカー好きがいるが、
プロサッカープレイヤーが皆、サッカーが好きなわけではない。むしろ、嫌いに思っている人が大多数であると、個人的に考えている。
怪我、痛み、苦しみ、競争。
果てしないレースの中で彼ら、彼女らは生きている。稀に、多くの苦しみを乗り越えても、「好き」だと人智を越えるプレーを見せる。
野球界では、『大谷翔平』が良い例えだろう。
だが、やはり稀なのだ。
現代社会は、選択肢が増えたように見えるが、意外と増えていない。
運命的なものはあまり、人間が変えることはできない。
農家は、農家。商売人は、商売人。
宗教家は、宗教家。
スマホ一つで、なんでもできるように見せかけて、実はやれることは少ない。
いくらアプリが多くなっても、『物事の補助』が限界である。
私はnoteで発信しているが、
どうせスマホがなくても、物を書いている。
面白いことを見つけて、書き留めておいて、物の分別がよく効く友達に話す。
それがより面白かったら、出版社に送りつけてみんなに見てもらうようにする。
発見が終わった後は、それを糧にして、また面白い物や事柄を探して生きている。
それの繰り返しだ。
みなさんはどうでしょうか?
スマートフォンのおかげでゲームの友達ができたり、趣味の友達ができたりしたでしょうか?
私からしたら、そんなオンラインで出会う事の胡散臭さはガラケー時代からあまり変わらないんですよね。
「与えられた環境で生きてみる。」
これで良い。
例え、ブラック企業だったとしても、選択してその企業に居続けるのは、貴方自身。
辞めて、違う転職先を探すのも貴方自身。
親が不道徳すぎるから、離れるのも貴方自身。
たまに、生きることから逃げたくなる時もある。
だが、誰もが生きている限り、
その足跡が消されることはない。
どんなに周りから、馬鹿にされたり、蔑まされたりしたとしても、何かは積み上げているはずだ。
私は応援はしない。
崖に向かって全力疾走している人もいるからだ。
全力疾走は、素晴らしいことだ。という道徳心は日本的なものだろう。
崖に落ちた私は、申し訳なく思うが、
貴方の10倍は崖の恐ろしさを知っている。
ただ、落ちても良い。
恐ろしいが、何とか生きていける。
本当の意味で「続ける」ということは、
「生きていく」ということに気がついてから、
世界が広く感じた。
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