日記 七月の終わりの温泉槽

 別に書くこともないけど、noteを書きたい欲求が芽生えることがある。たぶん、承認欲求に飢えているのだと思う。noteを書くと、見ず知らずの人が(時たま、見ず知らずではない人も)スキを押していってくれて、無反応ということが滅多にない。noteの優れているところは、スキをもらえるハードルが低いことで、あとはフォトギャラリーから画像をもらってきて、ヘッダーに嵌め込むと、自分の駄文もかっちょよくキマるので、満足感がある。

 あたらよ文学賞に昨日、応募した。先週はずっと、それを書いていたのだけど、結局3000文字ちょっとしか書けなかった。どうにも書き出しが決まらなかったことと、立てたプロットが15000文字に収まりきらなそうな雰囲気だったので、それを整えるのにも、時間がかかってしまった。
 集中力が続かないので、タイマーで20分1セットを計測しながら、小説を書くのを今回は試してみた。スマホを新しくしてから、日曜日の朝になると、今週のスマホ使用時間なるものが報告される。自分はだいたい日に4時間ぐらいスマホを見ているらしい。
 それによると、今週、タイマーを使用していた時間は、2時間34分だった。

 これは日に、ではなくて、週に、だ。
 つまり、一週間のうち、自分は小説を、2時間半しか書いていないということになる。
 驚いてしまった。そのうえ、ショックだった。自分でも薄々気付いていたが、こんなにも自分の身体が小説から離れてしまったのか(といっても、以前も執筆時間は同程度かもしれない)。
 それでも、うんうん唸りながら、設定をひねり出し、プロットを立てて、どうにか書いた小説だ。箸でも棒でも引っかかってほしいものだけど、その望みも薄いことは分かりきっている。
 さなコン3に応募した小説もそうだったけれど、自分はどうも設定を提示したところで小説を終わらせてしまうところがあるらしい。いや、正しくは、この世界はこういうところですよ、と提示したきり、尻切れトンボに終わってしまう。たぶん、読者が見たいのは、その世界でどんな出来事が起こるのか、ということだと思う。

 だから、自分が書く小説というのは、全部、冒頭部分、章でいえば第一章、あるいはプロローグで終わってしまっている。氷山の一角だ。自分の小説はたぶん、どこかに埋まっていて、もっと大きな形をしているのかもしれない。

 あらゆる小説家が、もっとどっしりと構えて、もっと一つの作品に向き合いなさい、と指南する理由が分かった気がする。四月ごろに、「書きあぐねている人のための小説入門」を読み直しながら、小説への情熱を取り戻そうとしているみたいな話をnoteに書いたと思う(もっと前のことかもしれない)。
 最近は栗本薫の「小説道場2(1だと初歩的な指摘が多すぎて、あまり身にならない)」を読み返しながら、次のプロットを考えている。次に書く作品は、年内いっぱいを使って書くような、自分が熱中できるものを、考えなければいけないのだろう、と思う。

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